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神 用 語

2018.10.01脳疲労と認知症

認知症に対しては、色々な見方があります。これは、人生の終末期をどの様に見るのかということによっても左右されます。現在は、高齢になると起きる認知機能の低下を自然な老化の過程としてではなく病気ととらえるようになっています。高齢期の認知機能の低下をすべて、病気としてとらえる強い社会的なあるいは経済的な力が働いています。抗認知症薬の販売で利益をうる製薬企業、認知症の研究で潤う大学研究者、患者として認知症を治療、入院させる医療機関などです。認知症と言うのは認知機能の低下であり、生命全体の価値の低下ではありません。痴呆と言う名称が認知症に変わりましたが、認知症と言う言葉には、人間の価値を限定してとらえるとこがあります。人間のよりどころとしている認知機能は表面的でもろいものです。社会的存在として海馬に蓄積された「記憶や理性」は、老化とともに、近時記憶から失われます。人間は理性を超えた存在です。感性も情動もあります。人間そのものが尊い存在なのです。

認知機能の評価尺度には様々なものがあります。長谷川式認知機能評価尺度や簡易精神機能検査(MMSE)などがよく知られています。これらの検査は、質問で時間や場所の見当識、計算、単語の遅延再生、書字、読字、図形模写などの認知機能を評価します。そのほか、本人を直接観察することや家族、介護者からの情報により評価するものがあります。その一つで、機能的段階評価(Functional Assessment staging -FAST)がよく知られています。FASTの重症度が進むにつれて、一人で服を着ることができない、食事に手助けが要る、入浴やトイレに介助を要する、言語数が少なくなる、歩行能力や着座能力の喪失などが認められます。わかり易く言えば、認知症の進行につれて、それぞれ、4歳、3歳、2歳、1歳の能力に等しい認知能力になります。認知症は認知機能と言う観点からは赤ん坊に回帰することでもあります。人間の一生は、誕生から老い、死へと向かう矢ではなく、青年期を頂点とした円環であることを示しています。人間のよりどころとしている認知能力は、青年期、壮年期を過ぎると徐々に低下します。最後は、よちよち歩きもできないおしめをした2歳、1歳児に帰ります。理性以前の原初の命の世界に還っていくのです。

アイヌの人々は、高齢になり認知機能が低下した老人の不可解な言葉遣い、わけのわからない言葉、空言(そらごと)を「神用語」と呼ぶそうです。そこには、命に対する非常に敬虔な姿勢があるように思えます。そこには、認知症の人を病人として失格者として見ることとは別の人間理解があります。認知症の人は、理性、認知、比較の支配する世界を脱して、赤子の世界と等しい、神の世界に近づき、神の言葉を使い始めたと思う世界観です。こうした思いを抱けば、認知症を病む人々に対して優しく成れるばかりか、私たちの気持ちもまた、豊かになるのではないでしょうか。
 

追記:「神用語」は、知人からの伝聞であり、文献に基づいたものではありません。
どなたか、文献をご存知の方がおられればお知らせ下さい。

ブックスクリニック東京・福岡
(もの忘れ・脳疲労外来)外来を担当

新 福 尚 隆