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プラズマローゲン物語 (12) (13)を掲載しました。

2021.08.16プラズマローゲン物語

プラズマローゲン物語(12) 困難を極めたプラズマローゲンへの道

九州大学健康科学センターを退職したといっても、64歳の藤野武彦は普通の人よりかなり忙しい。肩書だけでもレオロジー機能食品研究所所長、医療法人社団ブックス理事長などなど。そのうえに臨床医、研究医としても現役のままだ。

「脳疲労」概念を提唱し脳と心臓の相関関係の研究を軸に、統合医療を標ぼうする藤野はレオロジー機能食品研究所の所長になっても、「脳疲労はあらゆる病気の元になる」という仮説を立て、脳と身体の関係性の研究に没頭していった。

藤野が唱える「脳疲労」というのは、単なる脳細胞自体の疲労ではない。脳の細胞と細胞の関係性の破綻が脳疲労という症状を生むという。脳の細胞と細胞は直接つながっておらず、細胞と細胞の間は隙間が空いている。各細胞の突起と突起の間を神経ホルモンが橋渡しをする。この情報伝達物質が少なくなれば脳疲労を起こす。例えばセロトニンという伝達物質が減少すればうつ病を引き起こす。だからセロトニンを増やしてやればうつ病が治るということが分かってきた。このセロトニンの存在が2000年のはじめ、うつ病の治療に劇的な変化をもたらした。

うつ病のさらにひどくなった症状が認知症だとするならば、認知症にもセロトニンのような情報伝達物質が脳内にほかにもあるではないか。セロトニンだけでは認知症は治らない。つまり脳の関係性はセロトニンだけでなく、いろんな物質でつながっている、と藤野は確信した。だけどその物質が見付からない。

そんな時に「アルツハイマー病の患者の遺体で脳のプラズマローゲンが減少している。しかも記憶を司る海馬と前頭葉の両方に著しい」という1995年のアメリカの論文を知った。「もしかしたら」という直感が働いた。これまで「脳疲労」概念の提唱者藤野は、認知症は脳疲労の最重度の症状で、脳疲労は脳内の関係性の破綻であるから、そういう観点から見ていけば脳疲労そのものを表す「物質」が見付かるのではないかという仮説を立てていた。

2003年当時、藤野らはレオロジー機能食品研究所で脳疲労の研究と並行して、リン脂質の研究をしていた。リン脂質の一種のスフィンゴミエリンには、皮膚や脳に良い効果をもたらす力があるので、高脂血症、糖尿病、アトピーに効く食品の開発を行っていた。リン脂質は鶏の皮から大量に取り出せる。同じリン脂質であるプラズマローゲンも鶏の皮に豊富にあるに違いない。そこからプラズマローゲンの研究を開始しようとした。

ところがプラズマローゲンは酸や熱に弱く壊れやすいうえに、さまざまなリン脂質の中からごく少量のプラズマローゲンだけを取り出すのは困難をきわめた。そもそも鶏の皮からプラズマローゲンがどれくらいあるか検出する技術が問題だった。あるにはあったが、きわめて重厚長大な装置が必要で、高コストで時間もかかる。しかもその重厚長大な装置は、九州地区では九州大学にもない。

そこで藤野は自分たちの力だけでのプラズマローゲンの抽出を断念し、脂質の開発研究では先端を行っていた北海道の帯広畜産大学に共同研究をもちかけ、プラズマローゲンの抽出と精製を依頼した。当時はタンパク質の研究を行っている大学や研究機関は多かったが、脂質の研究をやっているところは少なかった。ところがその帯広畜産大学でも何か月たっても好結果は得られなかった。藤野は九州から帯広に赴き現地のトップ学者と一緒になって研究を進めたが、1年たっても結果は出なかった。すでにプラズマローゲンの研究費を農水省からもらっている。万事休すである。そんな状態のとき、意外にも「幸運」はすぐ近くにころがっていた。

プラズマローゲン物語(13) 馬渡志郎という研究医

藤野武彦がプラズマローゲンの抽出に失敗して、プラズマローゲンの研究を断念しかけたとき、救いの手を差し伸べてくれたのは学生時代からの親友馬渡志郎だった。その馬渡が当時、藤野のすぐそばにいなかったら、プラズマローゲンの開発研究は成立していなかったことは間違いない。非常に幸運だったといってもいいだろう。

馬渡と藤野は、1970年の「九大医学部改革運動」の終焉を契機に分かれ分かれになり、30年以上別の道を歩いていた。それがまた一緒になったのは、藤野が九州大学を退職してレオロジー機能食品研究所の所長になってから、馬渡を同社の研究部長として招聘したからである。招聘とかヘッドハンティングといったら少し語弊がある。「うちの研究所に来て少し手伝ってくれないか」「うんいいよ」といった関係といったほうが的確だろう。それまで藤野は「脳疲労」概念を提唱しマスコミなどに派手に登場していたが、馬渡は生化学者として福岡女子大学の教授をしていた。藤野に比べると堅実だが地道な道を歩んできた。堅実で地道といったが、藤野が誘いの声をかけると、あっさりと大学教授の職を投げうって藤野との研究の道を選んだのは、もともと好奇心と探求心が強い青年研究者の魂が還暦にしてよみがえったのかも知れない。

この2人の関係を語るには、話を1960年代後半までさかのぼらなければならない。

2人は九州大学医学部の同期生で、入学以来親しい関係をつづけてきた。1965年の医学部卒業と同時に大学院と研究科に進み、藤野は第一内科、馬渡は神経内科と専攻は別れた。しかし2人の親しい関係はつづき毎日議論ばかりやっていた。議論は恋愛論から哲学論、学術論までさまざまで、普通の若者と変わらない。親しい間柄だけに、議論は過熱しケンカ寸前までいくこともあった。藤野がなにか意見をいうと馬渡がそれを否定する。もちろんその逆もある。ヘーゲル流にいえばテーゼにアンチテーゼをぶっつけてアウフヘーベンするという弁証法だ。2人はこれをボクサーの練習法にたとえて、「議論のスパーリング」と称して、議論を楽しんだ。娯楽やモノがあふれている今はともかく、まだモノがそんなに豊富でなかった時代にはこんな学生がたくさんいたものだ。

藤野が進んだ第一内科は、九州大学が京都帝国大学福岡医学校として創設された年の1905年に開設された伝統ある教室だった。
初代教授の稲田龍吉はワイル病の病原体を発見した学者で、1919年、2代教授の井戸泰との共同研究でノーベル生理学・医学賞の候補に上がった。稲田は後に東京大学教授に転じ、1944年、文化勲章を受章した。だから第一内科はなによりも学術研究を重んじる教室だった。藤野が最後の教え子にあたる6代教授山岡憲二もヘモグロビン代謝の研究では九州大学で2人目となる日本学士院賞を受賞している。稲田が最も学生たちに強調した言葉は「フライハイト」、つまり学術研究で一番重要なことは自由でなければいけないということだった。その流れをくむ山岡も学生たちに「研究というものは、体制だとか、権威だとか、権力などに支配されてはいけない。真実を追求していくには絶対的な自由が必要だ」と教えていた。「伝統と自由」が第一内科の文化だといえた。

また第一内科は、伝統ばかりでなく若い医局員の研究を大切することでも有名だった。このような環境のもとに、藤野は「既成概念にとらわれず、だれも人がやったたことのないことをやろう」と新分野の研究に没頭していた。学部時代の恩師山岡は「研究は人がやったことではなく、これまでだれもやらなかったことをやれ。そのために自由度を高くもっていなければならない」「単なる技術的なものを追求する基礎医学でなく、人間全体のあり方を追求し、もっと人間性を高めるものでなくてはならない」が持論だった。山岡の退官記念講演のテーマは「釈迦の世界観」だった。普通、大学教授の退官記念講演は、自分の学問の自慢話や手柄話で終わるものだか、この想定外の退官講演を聞いて藤野は最初は驚いたが、やがて「これが九大第一内科の文化だ」と感銘を受けた。驚いたのは藤野だけではなかった。山岡は日本内科学会の会長もしていたので、東大や京大の教授たちも来ていた。彼らもさすがに驚きの色を隠せなかった。

一方、馬渡が進んだ神経内科は、1963年に日本で初めて開設された新しい教室であった。当時は精神科サイドとの関係で、日本では独立するのが難しかった。神経内科はそれまで精神的なものとしてとらえられてきた脳を物質として科学的、医学的にとらえようとする新しい学問分野であった。日本では欧米に60年遅れてのスタートであった。それだけに研究分野は未開拓であった。

馬渡は博士号を取得する前に、「抹消性神経異常を伴う家族性原発性アミロイドーシス」「家族性低ベータリポタンパク血症」「心臓異常を伴う肩甲下腿型筋委縮症・X染色体性劣性遺伝子型」など、当時、世界的にも報告が稀であった症例をアメリカの医学雑誌に投稿し掲載されていた。先の最後の論文には当時の大学の風潮(教授ボイコット)を考慮して、著者の中に教授の名前を入れなかった。実際、この症例は神経内科の入院患者ではなく、馬渡が大学病院の他の科に入院した患者を往診して発見したものであった。

しかしこの論文が、後に馬渡の進路を左右する際に、大きくモノを言うことになる。