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プラズマローゲン物語 (14) (15)を掲載しました。

2021.08.23プラズマローゲン物語

プラズマローゲン物語(14) 学位拒否闘争の波紋

1969年、東京大学医学部を発端に全国の大学に波及した医学部改革運動は、当時の三派系全学連を急先鋒とした「七〇安保闘争」と相まってピークに達していた。九州大学も例外ではなかった。九州大学の場合は、大学構内に墜落した米軍ジェット戦闘機ファントムが起爆剤になり反体制派の学生たちの過熱ぶりは全国他地域の学生たちを凌ぐものがあった。


 1960年代後半から全国の医学部で学部生と研修医によって全学連医学協や青医連が始めたインターン制度廃止を軸とした研修医の待遇改善運動が起こり、東京大学医学部はその中心的拠点校であった。1968年1月、医学部学生大会は登録医制と導入阻止や附属病院の研修内容改善を掲げて無期限ストライキ突入を決議し、医学部は紛争状態に入った。医学生たちによる運動は、たちまち全国の大学に波及していった。その一環として「学位拒否闘争」がある。


九州大学病院の医局には大勢の医師がプールされている。入院患者の数より多いくらいだ。23人の教授を頂点として、その下に助教授が24人、42人の講師、204人の助手、そして400人の無給医局員がいる。この400人の無給医局員が問題なのだ。ほとんどの無給医局員は医学博士号、医学部でいうところの「学位」を取得するのが目的なのである。医局員の生殺与奪の権は頂点の教授が握っており、学位授与の権限から、地域の公的あるいは私的系列病院への医師の派遣など教授のサジ加減ひとつである。1960年代以前は、この医学部病院体制のヒエラルキーは絶対的なもので揺るぎないものだった。その絶対的なものが、少し揺るぎはじめたのが、1960年代後半からである。


学位取得に対する反体制の学生たちの言い分はこうだ。「医師のほとんどが医学博士号を取るなんてバカげている。研究者向きの医師は5%程度。あとの95%は臨床向きの医師。しかも自分の専門領域とは無関係な分野で医学博士号を取っている。単なる権威主義でしかない」。


さらにそのOB医師はつづける。「医学部教授や助教授になるためには絶対に医局組織に属さなければなれない。大きな公的病院の上級医師の人事も医局の采配にゆだねられるので、医局を離れると大病院の管理職にはなれない。また学位のために若い医師を医局に抱え込む。一定の研修期間が終了したら速やかに民間へ出さなければ、日本の医療はだめだ。私的病院が医局の無給医局員のアルバイトで賄われているうちは、日本の医療は絶対に良くならない」。この言い分は、「学位拒否闘争」を支持する学生たちの言い分とほぼ一致する。


ちなみにアメリカの医学博士号はどうなっているのか。アメリカでは4年制大学を卒業して大学院の4年制の医学課程を修了したら「メディカル・ドクター」が授与される。さらに研究をつづけたければ、学術系の大学院の過程を修了して博士論文を書いて「フィロソフィー・オブ・ドクター」を取得するが、その数は医師全体の5%程度にすぎない。だからフィロソフィー・オブ・ドクターは、学者中の学者として尊敬される。

この後、学位拒否闘争の嵐に大きく影響されていく事になる。

 

プラズマローゲン物語(15) 学生と教授会との橋渡し役

学生たちが主張する「インターン制度廃止」のインターン制度とは、当時学部を卒業すると医師国家試験を受けるまでの1年間、無給のインターン生として医学実習の経験を積まなければ国家試験を受けられない制度のことで、これは「紛争」が収まってから「1年間のただ働き」の制度が改められ廃止になった。つまり学部を卒業すればいつでも国家試験を受けられるようになった。


問題は「学位拒否」の方だ。学生たちは、教授が博士号を盾に無給医局員たちを大学病院の医局にプールしているのは、旧弊な日本の医療体制の諸悪の根源と主張していた。国家試験に合格し医師免許さえあれば、どこで働こうと医師の自由、「職業の自由」を侵害する制度だというのだ。一方、学位肯定派は「学位がなくなれば、地道な基礎的な研究に従事する人間が減って、皆が安易な臨床に走り、それがひいては日本の医学の質の低下につながる。現に日本人の医師が書いた論文の数は、アメリカに次いで世界で2番目に多い。これが日本の医療水準を高めている」と反論する。それはそれで筋が通っている。しかし学生側は「学位取得のために研究している多くの医師が、果たしてどれほどの質の高い研究をするであろうか。そういう医師のほとんどは、学位さえとればその研究を継続することはないというのが現実でないか」と反論する。こういう議論が構内のいたるところで展開された。


「学位拒否闘争」は、あらゆる政治的セクトと無関係の藤野や馬渡にとっても人ごとではなかった。2人とも大学院に進んで4年目、ちょうど学位論文をまとめなければならない時期に来ていた。もちろん藤野自身は学位を頭から否定する気はなかった。第一内科は良き臨床医になるには一度臨床を学んでから基礎医学をしっかりやり直し、再び臨床に戻ってくるというコースが常識になっていたし、それが第一内科の伝統だった。はじめから臨床医を目指す医師も、なんの疑問も抱かずに従っていた。それに藤野は大学院に進んでから研究の面白さを知り、研究のとりこになっていた感がある。とにかく藤野は、中堅医局員として医局側に立ち、反体制側の学生たちを説得する役目を負わされていた。

学生に研究の面白さ、研究の重要さを知らしめることが自分の役割だと思っていた。

ところが学生と直接対話していて、彼らの言うことにも一理あるように思えてきた。たとえば大学の研究の問題でも、学生たちは痛いところを指摘してきた。そして彼らは「日ごろ藤野さんが言ってる、体制や経済力、権力や権威にとらわれない研究とはいったいなんですか。これでは自ら学問の自由を捨て去るようなものではないですか」とトドメを刺してくる。


藤野は「自由」という言葉に弱い。「彼らはまだ学生だから、基礎研究の面白さ素晴らしさを経験していないから、研究に対する一般的な理解がない。しかし、言っていることのロジックは正しい。この彼らの考えていることを教授会に伝える必要がある。だか、あまりに純粋な意見だけに素直に伝わらない恐れがある。よし、おれが教授会と学生たちの『橋渡し役』になってやろう」と藤野は考えた。

しかし研究予算や体制改善の問題は、大学が文部省の管轄で大学附属病院が厚生省の管理の下にある限り、そう簡単に解決できる問題でないことは藤野にも分かっていた。