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プラズマローゲン物語 (16) (17)を掲載しました。

2021.08.30プラズマローゲン物語

プラズマローゲン物語(16) 委員長かアメリカ留学か

  九州大学の医学部改革運動がピークに達すると、無給医局員たちの手によって「若手医師の会」がつくられた。それまで政治運動にまったく関係なかった若い医師たちも、「自分たちの問題は自分たちで解決しなければ」と結束して参加した。結局、若い医局員の約8割が同会に加盟した。


教授会と学生たちとの交渉の場となる「討論会」も設けられた。労働争議でいえば、お互いに意見を交換するいわゆる「団交」の場である。藤野武彦も参加したが、最初は教授会と学生たちとの橋渡し役になるつもりであった。藤野は教授たちの考え方も分かるし、学生たちの意見も理解できる。しかし学生たちは若くて経験が浅いため発言の仕方が硬くて拙い。そのため教授たちに誤解される恐れがある。だから討論会では、学生たちの生硬な発言を教授たちに「解説」する役を引き受けた。教授側の代弁者は医局の若手を取り仕切っている研究主任である。ところが議論が白熱すると、まるで研究主任と藤野が論戦しているように見える。こうなると周囲は、藤野は反体制側の人間としか見てくれない。藤野は政治的にはまったく無色の医師だが、「改善すべき点は改善しなければ」という考えを持つようになっていた。


そのうち無給医局員たちから藤野を「若手医師の会」の委員長に推す声が強くなった。状況としては断ることができない雰囲気だ。いつの間にかアンチ教授会のリーダーに祭り上げられていたのだ。親友の馬渡志郎に相談すると、即座に「やめとけ。君の性格はリーダー向きではない」というそっけない返事が返ってきた。これまで例によって医学部をどうするかという議論のスパーリングを何度も繰り返してきた。馬渡は藤野のいう学生たちのロジックを理解してくれた。そのうえで「やめとけ」という結論を出した。


実はそのとき藤野にとっては委員長になることよりも、より現実的には重要な話があった。アメリカのメイヨークリニックへの留学の話だった。メイヨークリニックといえばアメリカ有数の医療機関と教育機関と研究機関を兼ね備えた大病院だ。これまでの藤野の研究ぶりが評価されて、そこのリサーチフェローに推薦されていた。リサーチフェローといえば有給で、いまの無給医局員より待遇はいい。それにメイヨークリニックの経験があれば、そこを足場に世界的レベルの研究ができるし、九州大学に帰ってきても講師-助教授-教授のコースが約束される。


誰に相談することもない最高の話である。ところが藤野は「若手医師の会」の委員長か、メイヨークリニックか、どちらを選択するかで迷い、悩んだ。メイヨーに行けば「逃げる」ことになるからだ。


第一内科医局の研究主任は「君は留学すべきだ。こういう運動は一時的なものだ。すぐに嵐は過ぎ去る。嵐が過ぎ去るまでアメリカで一時避難しているのが君にとって一番いい方法だ」と言ってくれた。ところが藤野は悩みに悩んだ末、「若手医師の会」の委員長の方選んだ。「逃げる」とか「一時避難」ということがたまらなく卑怯な行為に思えたからだ。


藤野が委員長になり最初の委員会を開いたとき、ふと参加者の席を見ると馬渡がいた。例の間延びしたのんびりとした声で言った。「うん。神経内科を代表して委員として来た。委員長が君1人じゃ頼りないからな」。馬渡というやつはなんていうやつだ。みすみす損をすると分かっていながら、自分から飛び込んでくるなんて。苦笑いしながら、藤野はそう思わずにはいられなかった。


委員長として藤野は若い医師たちの「学位ボイコット」の誓約書を取りまとめなければならなかった。そこには学位未取得者全体の3分の2の署名がしてあった。委員長である藤野自身、神経内科代表委員の馬渡の署名もあったことはもちろんである。

プラズマローゲン物語(17) 敗北の瞬間に宿った「解」

日本の近代史のなかで体制と反体制が争って、反体制側が勝利したという例はきわめて少ない。藤野武彦の場合もはじめから勝利を目指していたわけではない。委員長の道を選んだ段階で、負けることは予想していた。


機動隊が大学構内に突入する日の払暁、学生たちは横で眠っている。だが藤野はまんじりともしないで、絶望感にひたっていた。かつては教授候補といわれたオレもこれで終わりかと「社会的な死」を覚悟しているとき、ふっと気が付くと、ものすごいことが起こった。これまでどうしても解けなかった心臓の超音波診断分野での超音波とWPW症候群(不整脈の病気)の関係が、いっきにスラスラと解けたのだ。自分でも人間業でないと思った。後にこの時の「解」をもとに論文にまとめてアメリカで発表すると、世界で初めての発見だと評判をとった。帰国してから「どうしてあんなことを思いついたんだ」という質問攻めにあった。藤野は「あの発見は私が考えたんではない。なにかが私の頭の中に『宿った』んだ」と答えざるを得なかった。これを聞いた同僚は、藤野のことを、きっと「変わったヤツだ」と思ったに違いない。強いていうなら、藤野は「絶望」や「社会的な死」の覚悟があのときの「解」を生んだと思わざるを得なかった。人間は死の瞬間、とんでもないことを思いつくものだろうか、と妙なことを考えてみた。藤野がよく口にする「暗闇だからこそ、光が見える」は、このとき思いついた言葉である。「脳疲労」概念を思いついたときも、自分で考えたというより「頭の中になにかが『宿った』」という感じだった。でもそれは後の話。いまは大学を追放されたのち、どうやって生きていくかが問題だ。


「これでおれの社会的死は決まった」と藤野は覚悟をして立ち上がり機動隊の方に歩いていったが、機動隊はその横を通りすぎていった。機動隊はあらかじめ逮捕する人間を政治的セクトに属する学生に絞っており、セクトに無関係の藤野は無視された。とりあえず逮捕はされなかったが、これから大学を追放され三度の飯より好きな研究ができなくなったら、さて、どうするか。


自分の敗北が決まったのち、藤野は「学位拒否」の誓約書に署名してくれた若い医局員たちを集めてこう言った「ぼくたちは責任をとって大学を去っていくが、どうか君たちは大学に残り、学位を取ってほしい。そうしなければ、この大学医学部の歴史と伝統が消えてしまう」。まだ学位をとっていない医局員の3分の2が学位拒否誓約書に署名をしていた。それだけの人数が一度に医学部を去っていけば、医学部はどうなるか分かり切った話だった。自分たち役員だけの責任ですむ問題ではない。


もちろん委員長である藤野はイの一番に辞表を書いた。この時点で九州大学を去るということは「社会的な死」を意味する。あるていど覚悟はしていたが、まだ若い学位未取得者にとって絶望以外のなにものではない。少しは「白い巨塔」にぶつかっていったつもりでいたが、旧体制に守られた教授会の頑丈で厚い壁はびくともしなかった。教授会は「若手医師の会」の幹部である全役員の「医局からの追放」を問答無用で決定した。当然、神経内科の馬渡もクビだ。ところが第一内科の藤野の処分だけがなかなか決まらなかったのだ。