BOOCSブログ
プラズマローゲン物語 (18) (19)を掲載しました。
2021.09.06プラズマローゲン物語
プラズマローゲン物語(18) クビにならずに済んだ理由
藤野武彦の処分がなかなか決まらない理由は第一内科の内部にあった。
医学部の教授会では藤野の追放を決定して、第一内科の教授に藤野の追放を迫ったが、第一内科では医局内部の人事は教授ひとりの一存では決められないという昔からの不文律があった。講師や助手など幹部医局員の話し合いと採決で決定して、それを教授に具申してはじめて教授が決定するという民主的なシステムを戦前からとっていた。馬渡の所属する神経内科は、新しくできた学科だったので、教授の一存であっさりクビになった。
教授会で決定した藤野の処分を教授が第一内科の医局に持ち帰ったとき、医局の「官房長官」役である研究主任が「なぜ藤野がクビなんです。藤野は何も悪いことはしていませんよ。彼はとてもいい研究をしています。なにもクビにする必要はないじゃありませんか」と反対した。この研究主任は、あの教授会と学生たちとの「討論会」で藤野と激しい討論をした、あの研究主任である。その藤野の論敵だと周囲が見ていた男にこうまで言われては、誰しも藤野のクビに賛成するわけにはいかなかった。
また藤野の尊敬している先輩の講師から、直接「君は医局に残りたまえ」とも言われた。この講師は将来教授を約束されていた優秀な医師だったが、紛争中は学生たちの意見に賛同して、紛争後自ら大学を去ることを決めていた。「君が去った後の第一内科はどうなるか。これまで君が主張してきたことを忘れずに、医局に残って内側からしっかりと第一内科を支えなさい。しかし残るということは相当辛いということを覚悟しなさい」。尊敬する先輩からこうまでいわれたら、それまでの藤野の決意は揺らがざるを得なかった。それに藤野はやりかけた研究もあって、医局には多少の未練も残っていた。残る方がきついなら残って頑張ろうと決意した。
いちばん困ったのは第一内科の教授である。教授会で藤野の処分を問われると、どう答えていいか分からない。ところがこの教授も偉かった。「藤野は医局のみんなの要望で医局に残します。しかしこれからも、無給のままで絶対に文部教官にはいたしません。そのうち本人も嫌気がさしてやめるでしょう」と言い切った。絶対に文部教官になれないということは、これから研究主任-講師-助教授コースを外されるということを意味する。藤野は文部教官になれなくて無給医局員のままでも、好きな研究ができればいいと腹をくくった。教授の判定は、ある意味では「大岡裁き」でもあった。
この教授は第一内科第七代教授の柳瀬敏幸である。九大第一内科出身であったが、長い間他大学の教授をしていて九大に教授として帰ってきたばかりだった。専門は遺伝学で心臓を専攻している藤野とは、あまり近しい関係ではなかった。事件直後、九大病院のエレベーターで偶然2人きりで乗り合わせ、お互いになんと話を切り出していいか思いつかず沈黙のまま別れたこともあった。しかし柳瀬は親しい研究仲間には「藤野君は心臓分野でなかなかいい研究をしているよ」と内訳話をしている。
事実、それからの藤野は出世コース的にいうなら「冷や飯コース」だった。
第一内科では研究主任(有給)を決めるとき、前の研究主任レベルのベテラン医局員と若手の医局員それぞれ合わせて10人の合議制で、第一候補と第二候補の2人を決めて教授の指示を得ることになっている。藤野は常に第一候補に選ばれたが、研究主任になるのは決まって第二候補だった。そういう時期が10年余りつづいた。
プラズマローゲン物語(19) 統合医学への道
藤野武彦がやっと第一内科の講師になったのは38歳のときだった。普通の人より遅いがこのころは、もう大学紛争のほとぼりもほぼ消えていた。しかしこの講師時代がさら10余年つづく。
その間、藤野は第一内科で黙々と好きな研究に没頭した。恩師の山岡憲二の「権威にこだわらず人まねでなく、まだ人のやっていない研究をやれ」という教えに従って、世界でまだ人がやっていない研究にこだわった。「心拍変動パターンにより自律神経機能異常の診断を可能にする方法」は世界で初めての研究だった。心臓の超音波診断の分野でWPW症候群などの発見も世界で初めてのことだった。
そういうときに1987年、九州大学に新しく「九州大学健康科学センター」が開設されることになった。この「健康科学」という新しい分野に挑戦する部署には藤野は最適だとみなされ、同センターの助教授として赴任した。やっと助教授になれたが、すでに48歳になっていた。それも第一内科でなく、傍系学部の助教授である。健康科学センターは医学部に所属したものではなく、あくまでも立場上は医学部と対等な独立した「学部」である。大企業でいえば、副社長といっても本社の副社長ではなく、傍系会社の副社長では本社の重役会議には出席できない。またたとえ同センターの教授になっても、別機関の教授であるから九大医学部の教授会議には出席できない。
藤野はこの健康科学センターでさらに10年間、助教授としてすごすが、研究室に閉じこもるだけでなく「水を得た魚」のような活躍ぶりを見せる。
それは健康科学という学問が、ひとつの型にはまった領域でなく、学際的な観点から自由自在な研究ができるからだ。藤野は「脳疲労」という新しい概念を提唱し、第一内科時代の「脳と心臓の相関に関する研究」の枠を超えて、「心身相関」「ポジティブヘルス」「統合医学」の研究を広げていく。
それでも健康科学センター助教授時代の藤野は、第一内科とまったく縁が切れたわけではない。藤野自身は第一内科から同センターに出向したつもりでいるし、第一内科の後輩医局スタッフもそのつもりでいる。だから第一内科に自由に出入りできる。このへんも少し人と変わっている。つまり藤野は結果的に2つの研究室を得たことになった。30年前の大学紛争のあと、大学をクビになっていたらとても考えられないことであった。この時期、藤野は「脳疲労」の概念をもとにストレスホルモンによる脳機能障害、心機能障害の発症メカニズムを学術的に明らかにして論文にまとめている。
この間、藤野は「脳疲労」に関する多くの一般向けの本を書いているが、そのなかで首都大学東京健康福祉学部教授の渡邊修が書いている「あとがき解説」が、藤野の目指す医療を理解するには最も分かりやすい。
「藤野先生の理論は、内科学の問題を脳科学で解明しようとしています。生活習慣病から自己免疫疾患、代謝性疾患、自立神経症候群にいたるさまざまな内部環境の乱れの根源は、体内を支配している脳に問題があるのではないかと述べておられます。とにかく、日々の臨床に追われる医師は、糖尿病なら血糖値を下げること、肥満なら減量と、その病態の結果への対症治療に陥りやすいのですが、その点に警鐘を鳴らされ、従来からの治療法、そのものに影響を与えたことに大きな意義があります」
だが、このころ藤野はまだプラズマローゲンには思いが至っていなかった。
ちなみに2000年、藤野は九州大学健康科学センターの教授に昇進するが、すでに63歳であった。2年後には九州大学を退職して株式会社レオロジー機能食品研究所の所長になる。そのとき九州大学は藤野の功績を認めて「名誉教授」の称号を贈るが、教授としての在任期間がわずか2年で名誉教授というのは異例のことであった。それと海外留学の経験がなくて医学部の教授になったのも、藤野が初めてだった。こ異例ずくめの藤野は、まさに医学部の異端児中の異端児といっていい。