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プラズマローゲン物語 (20) (21)を掲載しました。

2021.09.13プラズマローゲン物語

プラズマローゲン物語(20) 馬渡のその後、赤血球膜の研究にたどり着く

医学部紛争のほとぼりが冷めると、「学位拒否誓約書」に署名した医局員のほとんどが詫びをいれて大学に戻ってきた。

学位拒否運動は一連の医学部紛争が終わると同時に、尻すぼみになったといわれるが、あながちそうとばかりは言いきれない。アメリカの大学や病院で研修医として再出発して腕を磨き、日本に帰ってきて活躍した若い医師も少なくなかった。アメリカ帰りの医師たちは大学病院には戻らず、当時台頭してきた「徳州会」など民間の医療機関に幹部医師として参加し、日本の民間医療のレベルアップに貢献したという見方もできる。日本の大学紛争の末期、アメリカではベトナム戦争がエスカレートし、軍隊や軍医のベトナムへの大量投入で、アメリカ国内の医師の絶対数が不足していた。だから日本からも医師を大量に受け入れるという時代背景もあった。

九州大学を処分された馬渡志郎も、そのようにアメリカで再修業して出直そうと考えた。しかし学位は持っていない。学位がないということは、教授の推薦状がないということだ。藤野武彦のメイヨークリニックへの留学も、教授の推薦があったればこそだった。大学内だけでなく、ここでも日本の教授を頂点とした医学部のヒエラルキー体制は立派に生きていた。仕方がないので馬渡は、大学院時代に書いた論文を同封して採用依頼書をペンシルバニア大学の教授に送った。論文を読んだペンシルバニア大学の教授は採用を承諾し、さっそく九州大学の神経内科の教授に「君のところの優秀な弟子のための推薦状を書いてくれ」と手紙を書いた。さすがの自由の国アメリカでも、手続き上推薦状だけは必要らしい。さて、困ったのは九大の神経内科の教授である。自分がクビにした医局員の紹介状を書かなけれならない状況になったのだ。しかも、この馬渡を採用したいというペンシルバニア大学の教授は世界の神経学会の有力者であった。

こうして馬渡は1972年3月から、ペンシルベニア大学のリサーチフェローになった、ペンシルバニア大学で1年間研究に従事し、主任教授がニューヨークのコロンビア大学に移ることになったので、馬渡もコロンビア大学神経病研究所に移り、そこで2年半余り研究に従事した。

アメリカでの3年半は、神経筋の遺伝性疾患である筋ジストロフィー症の研究が中心であった。筋ジストロフィーの患者の筋肉の細胞膜と正常な筋肉の細胞膜を精製して、細胞膜にある酵素の活性を比較することが主なテーマであった。もともと正常な筋肉の細胞膜を精製すること自体が難しいのに、ジストロフィー患者の筋肉は変性して線維芽細胞に置き換わって減少しており、減少した骨格筋から細胞膜を精製するのは困難であった。そこで考えぬいた末、遺伝性の病気なら、骨格筋に限らず、他の組織の細胞膜にも骨格筋と同じ異常があるかも知れないと考えが閃いた。そこで赤血球に目をつけた。赤血球は他の細胞のように核やミトコンドリアなどの細胞小器官が存在しない。細胞内はヘモグロビンだけが存在しており、したがって低張液で赤血球を溶血し赤血球内のヘモグロビンを洗い流すだけで白い純粋な細胞膜を取り出すことができる。この赤血球膜なら、筋ジストロフィー症患者と正常者の細胞膜を同じ純度にして比較することができる。しかも赤血球は静脈から採血するだけでよく、患者の負担も少ないというメリットもある。この目論見が見事に成功した。

馬渡はこの経験から、その後の細胞膜の生化学的研究には精製した赤血球膜を利用した。赤血球膜を用いて、細胞膜の過酸化のメカニズム、ビタミンCやビタミンEなどの抗酸化の作用機序などの研究を次々に行った。これらの研究はアメリカの生化学関連ジャーナルに発表された。

この馬渡の赤血球膜の研究が、この物語の主人公であるプラズマローゲンの研究開発の大前提になるのである。

プラズマローゲン物語(21) レオロジー研究所での研究

3年半のアメリカ留学を終えて帰国した馬渡志郎は、帰国前に九大神経内科に席はないと伝えられていた。住居が福岡市内にあったこともあり、とりあえず福岡市に帰った。

とりあえず九州大学医学部神経内科に戻ったが、そこは教授もその他の教室のメンバーも留学前と変わっておらず、当然歓迎はされなかった。当時は、教授の推薦がなければ他の大学に移る事はできなかった。しかも馬渡は博士号も持っていなかった。帰国後すぐに、1年前に開始されていた日本神経学会認定神経内科専門医の試験を受け神経内科専門医の資格を取った。

その頃、国立大学では学生の健康管理が問題となっており、医学部のない国立大学でも学生の健康管理所の設置が促進されていた。馬渡は九州工業大学の健康管理室に行くよう当時の教授から言われ、仕方なく赴任した。結局は教室から追放されたのである。

九州工業大学の健康管理室は新設で、生化学的研究の場所も器具もなかった。九州工業大学に赴任して思い知らされたのは、文部省の研究費を申請するには博士号を持っている事が重要(必須)という事実であった。幸運にもその頃、九大医学部教授会の事情からか、神経内科の教授から博士号を取得しないかと言われていた。いきさつ上、しばらく返事をしていなかったが、自分で研究費の申請、獲得がしたくて、博士号を申請した。結局、神経内科教授の推薦で九州大学の博士号を取得した。大学院の単位取得後8年が経っていた。

博士号はアメリカでの研究を基に論文を書き九大の博士号を取得した。それでも何か後ろめたい気持ちがあったのは事実である。そして馬渡はそのことは藤野にも伝え、さらに大学に残るつもりなら機会があれば博士号を取っておくことを藤野に進めた。

九州工業大学は約2年で辞職した。その後は国立療養所、民間の健康管理室や病院で臨床の仕事を行い生化学的研究の機会はほとんどなかった。55歳の時、藤野の紹介で県立福岡女子大学に教授として赴任した。当初の1年間は臨床栄養学、生理解剖学の抗議の準備に追われ研究する余裕はなかった。しかし女子大では卒業研究という制度があり、4年生になると数人ずつ各研究室に配属され研究を行うのである。九大農学部大学院(修士課程)を終えたばかりの女性が教育助手として配属され、後に九州大学農学部の博士号を取得させた。その学位の論文テーマは「ヒト赤血球ヘモグロビンの過酸化」であった。

こうして、馬渡は久しぶりに自分自身の発想で自由に研究ができた。教授会や講義は苦手であったが、実験・研究の喜びを取り戻したのである。研究費が不足する中、何とか工面して高速液体クロマトグラフィーを購入した。さらに、世界でも発売されたばかりの蒸発光散乱測定器を入手、赤血球膜の脂質の研究を開始した。

30年間別の道を歩いていた藤野武彦も赤血球細胞膜の粘弾性(レオロジー)の研究が認められ、レオロジー機能食品研究所の所長に抜擢された。生理学と生化学という手法の違いはあるが,奇しくも同じ赤血球細胞膜の研究で一致していたという見方もできる。

2002年、藤野がレオロジー機能食品研究所の社長に就任すると、ただちに研究所長に馬渡を招聘した。招聘といえば少し語弊がある。「なにか面白い研究がしたいなら、研究所に来て少し手伝ってくれないか」「うん面白いのなら行ってもいいよ」というのが正直なところだ。馬渡の福岡女子大学での肩書は人間環境学部栄養健康科学科教授で機能性食品とまんざら関係なくはない。だからレオロジー機能食品研究所では、「人の血類および血球間の生化学的変化とレオロジーとの関係」「血液の流動性および血球の変形能に関係を有する食品の関係」「赤血球膜の変化と抗酸化作用を有する食品の研究」など、食品と血液に関する実証的な研究が主な仕事だった。

藤野から「どうもプラズマローゲンがアルツハイマー病に関係しているらしい。僕はこれからプラズマローゲンの研究をやりたいと思うが、一緒にやらないか」と言われたとき、馬渡は「難しいから止めた方がいい。他のリン脂質と区別して純粋なプラズマローゲンだけを抽出して試料をつくるだけでも大変な仕事になるぞ」と即座に否定した。「難しいかもしれないが、きっと道はあるはずだ。この研究はやるだけの価値がある」といくら藤野が説得しても馬渡はクビを縦に振らない。この藤野が何かやろうとすることを最初は反対するのが、馬渡だった。その習性は30年たっても変わらない。

しかし藤野が帯広畜産大学との共同研究がうまくいかず、プラズマローゲンの研究を断念しかけたとき、「これ、僕がやってもいいか」と突然、馬渡の方から言い出した。藤野は研究を半ばあきらめかけている時だったので「ああ、どうぞ自由にやってくれ」といい加減に答えた。口にこそ出さなかったが、専門外のことだし、期待していなかった。ところが藤野たちが共同研究で1年かけてもできなかったプラズマローゲンの抽出と精製を、わずか1か月でやりとげた。

藤野は昔からいつも藤野と馬渡の関係を、人気漫画「ドラえもん」ののび太とドラえもんの関係にたとえていた。のび太が困っていると、ドラえもんがどこからともなく現れて「魔法の力」でのび太の窮地を助けてくれる。もちろん藤野がのび太で馬渡がドラえもんである。しかしこのときほど、ドラえもんの存在をありがたく思ったことはなかった。