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プラズマローゲン物語 (32) (33)を掲載しました。

2021.10.25プラズマローゲン物語

プラズマローゲン物語(32) だれもがかかりうる認知症

前項の記述はパーセンテージの問題だが、認知症はヒトである限り、地位、貧富、性別、身体の強弱に関わらず、ある程度の年齢に達すればだれにでも平等にかかりうる病状であることを忘れてはならない。

強いアメリカの象徴であった元大統領ロナルド・レーガンは、1992年にアルツハイマー病を発症し、その2年後に彼自身の病気を公表した。当時、アルツハイマー病という病気はあまり知られてはおらず、その告白に人々は衝撃を受けた。レーガンは家族の介護に支えられながら闘病し、2004年に肺炎のためその生涯を終えた。レーガン研究所などアルツハイマー病の解明・克服のために貢献したことは高く評価されている。

アメリカ国民へ向けての公表文のなかで、レーガンは公表する理由について「私たちの心境を告白することによって、この症状への認識と理解の拡大に大いに貢献できるであろうことを願っています。この公表が同じ病気に苦しめられている個人の方々や、その家族の皆さんの明白な理解を促すかもしれません。」と述べている。文頭の「私たち」とは、自分とナンシー夫人のことだ。認知症はかかった本人だけの問題ではない。伴侶や家族へ与える影響も計り知れない。さらにレーガンは国民に向けてつづける。「残念なことに、アルツハイマー病が進行するにつれて、家族にのしかかる負担や責任は重くなってきます。私はナンシーには苦しみを何とか和らげることができますよう望んでいます。時がくればあなた方の助けを借り、彼女は信仰と勇気を持って、そんな事態に向き合ってくれるだろうと、私は確信しています。」このいかにもアメリカ人らしいレーガンの認知症のカミングアウトは認知症の患者を勇気づけるだけでなく、アメリカ国民の認知症への理解度と支援体制を大きく飛躍させるきっかけになった。

1900年代前半、当時の我が国の認知症への理解度はまだ薄く、家族に認知症が発症すれば、家の恥として世間体を恐れて「隠す」という時代であった。認知症になったお年寄りは、「呆け老人」と呼ばれ、病名も「老人性痴呆症」とされていた。やっと2004年になり厚生労働省が、行政分野および高齢者介護分野で「痴呆」という呼び方を廃止し「認知症」という用語に置き換えた。各医学会においても、2007年ごろまでに「痴呆」から「認知」にほぼ置き換えられた。その意味ではアメリカは認知症の先進国、日本は後進国だということがいえる。

 ちなみに、「鉄の女」の異名をとった英国の元首相マーガレット・サッチャーも公表はされていないが、晩年は認知症になった。2000年ごろから自慢の記憶が急速に衰え、周囲に同じことを何度も訊ねるようになったり、亡くなった夫のことを覚えていないことなどの認知症の症状を見せるようになったということだ。

このように世界の認知症への認知度と理解度が高まり、2013年にはイギリスで「G8認知症サミット」が開かれ、認知症政策における大きな転換点になった。同サミットは各加盟国の認知症施策で得た知見を結集、グローバルで効果的な解決策を導き出すことを目的とした。ここでは「2025年までに最初の治療が可能となる疾患治療薬の開発を加速する」という共同声明がなされた。翌2014年にはイギリスのキャメロン首相の発案で「世界認知症審議会」(WDC)が発足した。このように認知症はいまや世界全体で取り組む課題になっている。

プラズマローゲン物語 (33) 専門医・長谷川和夫の場合

認知症を医学的に熟知しているはずの専門医にでも容赦なくやってくる。認知症専門医で認知症介護研究・研修東京センター名誉センター長の長谷川和夫は2017年10月の講演会で、自分が認知症であることをカミングアウトした。88歳のときだった。公表した理由を長谷川は「認知症医療の分野に携わっておよそ60年。日本人が90歳、100歳まで生きることが珍しくなくなった昨今では、認知症はだれでもなる可能性がある。他人ごとではない。どなたさまも向き合っていかねばならない問題だということを伝えたかった」という。

長谷川が自分は認知症ではないかと思うようになったのは、自分が話したことをすぐ忘れてしまうようになったのがきっかけだった。昨日の日付はわかっていたのに、翌日になると今日が何日だかわからない。そこで専門病院で検査を受けた。長谷川は、まだ認知症が「痴呆」と呼ばれていた1974年、世界で最初の認知症診断の物差し「長谷川式簡易認知評価スケール」をつくった。その長谷川式テストでは全部暗記していてまずいので、他の「難しい」テストをいくつも受けた。自分では「アルツハイマー病」だと思っていた。診断の結果は「嗜銀顆粒性認知症」だと診断された。この認知症は、80代後半に起こることが多く、正常な状態と認知症の状態を行ったり来たりする症状が特徴だ。

長谷川の場合は1日の中でも正常な時間が長く、1人で散歩にも行けるし、近所の喫茶店で好きなコーヒーを楽しむこともできる。しかし日記をつけていて、今日はなにをしたのか思い出せないことが多くなってきた。そして自分であるという意識が薄れていくような気がする。正常な自分と、認知症の自分との境目が分からなくなっていく。それでもメディアの取材には積極的に応じることにしている。かつて先輩医師から「君は認知症の研究で有名になったけど、自分が認知症になって実際に経験してみないとわからないこともあるだろう。だからまだまだ本物とはいえない」と言われたことを覚えている。自分が認知症になって初めて「気づいたことや感じたこと」を、かつて認知症の権威であったことを踏まえて認知症の自分を世の中に報告する義務があると思っているからだ。

発症2年目、長谷川は小学校低学年にも読める絵本「だいじょうぶだよーぼくのおばあちゃんー」を出版した。その本で少女は「おばあちゃん、私たちのことをわからなくなったみたいだけど、私たちはおばあちゃんのこと知っているよ。よく知っているから大丈夫。心配いらないよ」という。その言葉を聞いたおばあちゃんは安心する。長谷川自身もそんな心境になっている。

1970年代の前半、長谷川は東京都の依頼で認知症の実態調査をしたことがある。作家の有吉佐和子が「恍惚の人」を書いて話題になったころだ。当時、認知症の人は「ぼけ老人」と呼ばれ、病気というよりも「役立たず」「やっかい者」と見なされて、放置、隔離、拘束されるケースがほとんどだった。認知症の高齢者のいる家庭は悲惨そのもの。当時と比べると今は隔世の感がある。各地域にデイサービスの施設があり、最近は「認知症カフェ」も普及してきた。「認知症カフェ」はイギリスの「メモリーカフェ」やオランダの1997年から始まった「アルツハイマーカフェ」などを参考に設計されたもので、日本では2012年ごろから普及し、厚生労働省の調査では全国に2253か所もある。運営主体は介護サービス施設事業者や地域包括支援センターが多い。国の新オレンジプランでも、「2018年度からすべての市町村で地域の実情に応じて実施する」という目標を掲げている。

そのように認知症をめぐる環境は大きく変わってきた。認知症への理解度は高まり、施設などのインフラ整備は進んできたが、肝心の認知症の人の治療薬の開発は遅々として進んでいないのが現実だ。

長谷川は認知症を熟知しているはずの専門医だが、日本が生んだ国際的な大スター、三船敏郎も晩年は認知症に苦しんだ。利発で庶民的な女優、南田洋子や朝丘雪路も認知症にかかり、夫のかいがいしい介護のもとに一生を終えた。そのように認知症は、歳を重ねると誰にでも起こりうる症状である。