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プラズマローゲン物語 (34) (35)を掲載しました。
2021.11.01プラズマローゲン物語
プラズマローゲン物語(34) 認知症に挑戦するやる気
山本は医師の朝田に「最近、取材日程のダブルブッキングをして、これは尋常でない、認知症ではないかと不安で夜も眠れない。認知症だと早期発見して治療しないとやばいと思って受診にきた」と訴えた。朝田は問診やMRI、CT画像の結果、次回の再診日に「それほど進行していないが軽度認知障害」の診断をくだした。ちなみに朝田はこの章のはじめに書いた認知症専門医の山田達夫の東京医科歯科大学の後輩にあたり、親しい関係であった。
朝田の「もの忘れ外来」を訪れる多くの人は、なにも認知症と診断してほしくて来院するわけではない。本音は「年齢相応のもの忘れだ」と言ってほしいのである。受診に来る前夜は紋々として眠れない一夜を過ごしたにちがいないが、「なんでもないです。年相応の範囲内です」と言ってもらうことを期待している。朝田は診断結果を告知したときの反応を3つに分類している。
まず「早期発見・早期絶望型」、次に「否認型」である。これら両者には一種の防衛機制があるようだ。その代表が「そう進行していないので、普通にやっていれば認知機能はよくなりますよね」という独り言とも質問ともつかない発言をする。ここには自然治癒という願望が感じられる。非現実的ではあるが、対応法がないとわかればこれも無理はないと思える。いちばん望ましいのは「徹底抗戦型」だが、この型はそう多くない。しかし、この徹底抗戦型が軽度認知障害から認知症に進行しないための予防策としては最も望ましい。
朝田は山本が「MCIととことん戦うぞ」という抗戦型とみて、筑波大付属病院で行っている「認知力アップデイケア」への参加を勧めた。朝田は軽度認知障害の早期治療の推進論者である。期待通り山本は週2回のトレーニングに積極的に参加した。デイケアは朝9時から昼をはさんで午後5時までおこなわれる。しかも週5日の週刊朝日の通常勤務をこなしながらである。それどころか、自ら最もきつい「本山式筋力トレーニング」にも取り組んだ。本山式筋トレの創設者本山輝幸には「筋肉トレーニングが高齢者に与える影響」という論文もある。この論文は2012年の「臨床スポーツ医学」という専門誌にも掲載された。実際に同病院で本山式筋トレを3か月間実践した軽度認知障害者8人が、認知機能検査で記憶力が152%、注意力が23%、言語力が30%、それぞれ改善されたデータもある。
朝田は「本山理論には医学的には未解明な部分も多い。私は本山さんが筋トレ後に取り入れた独特の呼吸法にも関係があると思っている。認知症早期治療に重要な治療法のひとつになると思っています」と説明、認知症の早期治療には運動がいちばん効果があると考えているという。運動することによりドーパミンやアドレナリンなどの神経伝達物質が神経栄養因子を合成し、それらの放出が増加する。そしてこれらがシグナル伝達を介して神経や血管を新生させるという考え方だ。アメリカのMCIのガイドラインにも「規則的な運動を週に2回程度、6か月以上にわたって続ければ有効とする良質な報告が相当数存在する」と記した項目がある。
とにかく軽度認知障害の早期治療にかけた山本は、毎週2回欠かさず認知力アップデイケアに通った。その間、認知障害の進行は少しも見られなかった。ただ仕事と両立できるかと不安になりデスクに相談すると、デスクから「認知症早期治療の実体験をルポにすればいい」と言われた。自分と同じく若年性認知症に悩む人の一助になればと思い、体験ルポを連載した。連載は2014年4月から同年9月にわたる長期連載になり、その反響は大きかった。同年11月、東京・六本木ヒルズで行なわれたG8認知症サミットの後継イベントのオープニングスピーチを依頼された。山本はこれも治療の一環だと思い引き受けた。会場には世界各国から200人以上の認知症当事者や医療関係者が出席した。
そのオープニングスピーチで山本は、同じ悩みを抱えている人も多いと思い週刊誌に連載を始めたこと、筑波大付属病院のデイケアでは強めの筋トレや美術、音楽、認知力ゲームでリハビリトレーニングをしていることなどを淡々と話し、最期は「認知症にはまだ特効薬はありません。効果のある安全な薬ができるまで、私はトレーニングを続けて症状を遅らせようと思っています。みなさんの研究成果に期待しています」と結んだ。会場は大きな拍手に包まれた。山本だけでなく、治療薬を待ち望んでいる人は多い。
プラズマローゲン物語(35) 認知症の特効薬はあるのか
2014年7月、NHKテレビ番組の「NHKスペシャル」で、海外のアルツハイマー病の「新薬」が紹介されたことがある。藤野武彦のプラズマローゲンが紹介されたTBSテレビ「夢の扉+」の放映より半年前のことだ。そのアメリカの新薬とは糖尿病薬インスリンや脳梗塞薬のシロスタゾールを混合したもの。それを脳に近い鼻から吸い込むように服用すると、それまで寝たきりだった認知症患者が立って歩けるようになるという生々しい映像だった。
その番組を見た山本朋史は、筑波大付属病院で「もしこの薬が本物ならノーベル賞ものですね」と朝田隆に質問した。朝田はうんざりした表情で「糖尿病と認知症の合併症の患者さんも多いので、糖尿病薬を併用している方もいます。番組で紹介された薬が認知症にも効果があるという情報は、もうだいぶ前からありました。大きく扱われては消え、また浮上する。効果がある人もいますが、私は患者の光明になるような根本的な新薬ではないと思います。鼻から服用するのは、脳の海馬が鼻の臭覚神経に隣接しているので効果は高いかもしれないと思いましたが」と説明せざるを得なかった。
そのように2015年当時までは、G8認知症サミットの共同宣言「各国の協力により、2025年までに認知症治療薬もしくは緩和療法の確立を目指す」という旗のもとに、各国で大手製薬会社による新薬の研究開発が相次いだが、これといった成果は見られない。というよりも、製薬会社の連戦連敗というのが現実なのだ。
現在、日本では4種類の認知症治療薬が認可されている。世界最初のアルツハイマー病とレビー小体型認知症の治療薬として大手製薬会社エーザイが1999年に発売したのが、現在でも最も多く使われている「アリセプト」。この薬は脳内で減少している認知機能に関わる神経伝達物質アセチルコリンを補充するというものだった。この新薬が発売されると、それまで家に拘束されていた大勢の認知症患者が家族とともに病院に足を運んだ。アルツハイマー病は「薬で治せる病気」という理解を一般的に深めるという意味では、まさに画期的な薬だといっていい。しかし、認知症の症状を遅らせるという効果にとどまっている。この4種類の治療薬は、臨床的にも医療経済的にも効果が薄いとされてきた。それだけにブレークスルー的な薬剤が期待されているのだが、この開発は極めて難しい局面にある。
認知症の治療薬の研究開発は、他の一般の薬に比べてきわめて成功率が低い。アメリカ研究製薬工業協会の2016年の調査では、1996年から2014年まで臨床試験を行ったアルツハイマー病の新薬候補127成分のうち規制当局から製造承認取得を得たのはわずか4成分、確率にすると3.1%にすぎない。これに対して一般的新薬は、臨床試験に入ったもののうち10%強が実用化に成功している。アルツハイマー病新薬候補の成功率は、一般新薬の3分の1という状態だ。
最近では開発研究中の新薬候補の開発中止というニュースが相次いでいる。2016年にアメリカの大手イーライリリー社が初期アルツハイマー病治療薬の実用化を断念した。第3段階の臨床試験で、認知能力の低下に歯止めをかけることを医学的に証明できずに、規制当局に製品化の申請を見送った。イーライリリー社は製薬業界では認知症治療薬開発をリードし、患者からの期待も高かった。2017年にアメリカの製薬大手MSD社がアルツハイマー病新薬候補のベルべセスタットの開発を中止した。
日本では、2019年3月にバイオジェンとエーザイは新薬候補アデュカヌマブの「主要評価項目が達成される可能性が低い」として臨床試験を中止した。臨床試験は早期アルツハイマー病患者1556人を対象に第3段階を始める直前だった。新薬開発に要する時間と金額は、普通10年200億円といわれているが、認知症の新薬開発はそれをはるかにオーバーすると見られている。その連戦連敗続きの認知症新薬開発について「ウォールストリート・ジャーナル」の記事は「過去10年間に世界中で行なわれたアルツハイマー病新薬の臨床試験のうち99・6%が失敗」と報じている。(なお、新薬候補アデュカヌマブは2019年10月、同社はデータを再分析し、規制当局の承認を求める意向を発表、米食品医薬品局(FDA)は2021年6月7日、米製薬会社バイオジェンと日本の製薬大手エーザイが共同開発したアルツハイマー病の治療薬「アデュカヌマブ」を承認したと発表した。ただし、FDAの承認は条件付きで、臨床的ベネフィットを検証するRCTの実施を求めており、ベネフィット(効果)が確認できなかった場合は承認を撤回する手続きを取るとしている。現在、日本でも承認検討中でどのように判断されるか注目されている。)
2014年当時、医師朝田は患者山本に対して「この21年間、認知症の新薬が出なかったのは事実。日本でもこれまで25種類が治験薬として開発されたが、いずれも承認されていない。私もある大学の研究所と共同研究している治療薬がある。でも認知症には個人差があり、全員に効果があるような薬は極めて難しい。だが近い将来、きっと画期的な治療薬が見つかるはずです」と言わざるを得なかった。