BOOCSブログ
プラズマローゲン物語 (36) (37)を掲載しました。
2021.11.08プラズマローゲン物語
プラズマローゲン物語(36) 福岡大学の協力関係で安心院プロジェクトスタート
山田達夫と福岡大学神経内科教室は2002年から、大分県安心院町と共同でMCI有病率調査と認知症予防活動「安心院プロジェクト」を実施することになるが、その前に安心院町の保健師吉田ユリ子のことを話しておかねばならない。
吉田ユリ子は1973年、大分県安心院町に国民健康保険の保健師として就職した。安心院と書いて「あじむ」と読む安心院町は人口約1万人で国保加入は約60%、加入率は大分県58市町村の中でも高いほうであった。ちなみに2009年度、安心院町が宇佐市に合併されたとき、宇佐市全体の国保加入率は40%であった。吉田ユリ子は就職後から13年間、1人保健師として家庭訪問、疾病統計作成と、当時脳卒中の死亡が多いことから「脳卒中よろしくお願いいたします某教室」などの活動に専念していた。その後は保健師の増員があり、がん検診を中心に活動が展開され、早期発見・治療により治療費の適正化が図られ、大分県の中でも保険税の安い町として注目されていた。
1995年から2001年の間、毎年大分県58市町村では安いランクの1位から3位であった。もちろん医療現場の第一線で働く吉田らの尽力の賜物であったことは言うまでもない。
一方、2000年当時、吉田ユリ子は認知症に対する理解が住民だけでなく自分も低く、このままでの保険行政に強い危機感を抱いていた。特に早期検診と早期対応ができていないために、在宅困難になった重度認知症住民への対応を通して強い問題意識を持つに至った。そこで年に1回、認知症予防講演会を開くことにした。講演会には約500人が参加した。また月に1回は医師会の医師による認知症の正しい理解のための健康講座を開いた。毎月50人程度の参加者があった。2002年からは脳の健康度チェック事業を始めた。ここでは40歳以上の住民に簡単な認知機能テストや聞き取り調査を行った。しかしその結果は次の予防事業には結びつかなかった。そのため吉田らは大学などの研究機関からの支援を得なければやっていけないことを痛感するようになった。そこで地元の医師会と相談した結果、福岡大学との協力関係につながっていったのである。
2002年、大分県安心院町と地元医師会の要請を受けた山田達夫の福岡大学神経内科教室は、その要請を受けて安心院町において行政との協力をもとにMCI有病率調査と認知症予防活動を実施することにした。その後、このプロジェクト計画を福岡大学倫理委員会に提出し許可された。
プロジェクト開始当初は各種団体組織との協議や認知症予防講演会を頻繁に開催し、この地区での調査予防研究の合意形成を得た。その後2003年3月から2004年11月まで、地域に在住している65歳以上の高齢者を対象に第一次調査を行った。毎週1回から2回、各地区の公民館を巡回し、家族構成や教育歴、疾病の既往歴や日常生活動作障害を聴取し、うつの有無を問診で評価した。住民の認知機能評価は、高齢者用の集団認知機能検査として開発されたファイブ・コグにより行った。ファイブ・コグは、記憶,視空間、言語、注意、抽象的思考の5つの認知機能項目で構成されている。調査後は認知症啓発活動を目的とした教育講演を実施した。こうした活動を含め、この一次調査を「生き生き元気教室」と名づけた。問診、テストと講演で約2時間の教室であった。
一次調査終了時、1251人の地域住民への調査が完了した。その内訳は、男性439人、女性812人、平均年齢75歳、平均教育歴9・9年だった。住民登録していた当時の65歳以上の人口は2725人であったが、町民以外に生活の場を移していたり、入院・入所をしていた住民を考慮すると実質調査対象者は1782人となり、約70%の調査率であった。一次調査のファイブ・コブで1項目だけ標準より低下していると判定された住民は239人で、これらの住民を対象に2004年3月に二次調査を行うことにした。
このようにして「安心院プロジェクト」は順調に開始されたが、その裏舞台を知れば、けっして順調満帆なスタートではなかった。
なにしろまだ認知症が「ぼけ老人」とか「老人性痴呆症」といわれていたころの風潮が残っていた時代である。当時の地域住民の中には、大学にデータだけ取られて地域に還元されず一方的に利用されるという危惧が強く認められた。いわゆるモルモット扱いされるのを拒否する心理である。また町役場の職員の中には、新しい仕事はいやだ、できるだけ事務量の負担が増えることを避けたいという気持ちが強い者もいた。未知の事業への不安などの理由で、必ずしも全員が喜んで受け入れるムードではなかった。
そういう中で吉田は自らの努力で大学との連携を円滑にし、また町役場の上司の理解を得ることに努めた。さらに住民組織との意思疎通をより強固にするために日夜奔走した。その過程で大勢の協力者が現れてきた。介護ボランティア50人、食のボランティア70人、健康推進委員140人、メンズサラダクラブ55人、区長会120人、民生委員、町づくり協議会の委員などの人々である。これらの賛同者は、1973年以来、吉田が行ってきた活動の中で育ってきた人々であり。安心院プロジェクト成功の要因の第一に挙げなければならない人々であった。
「イキイキ元気教室」を行いながら実施した認知症の実態調査は毎回10人の支援者を得て、各地域の公民館で56回にわたって行ったものである。福岡大学への信頼は、1年以上におよぶ認知機能チェック、認知症予防講演や物忘れ相談活動を通じて回を追うごとに醸成されていった。このように、行政や地域住民の多くの協力者を得ることで、安心院プロジェクトの活動はスムーズに進められていった。
このことについて後に山田達夫は次のように語っている。
「結局、このプロジェクトの成功は、吉田さん抜きには語れない。彼女が育てた住民パワーが安心院プロジェクトを生み、成功させたといっても過言ではない。地元住民の方々と親身になって相談役に徹した大学の研究員や財政的支援も重要な役割を果たしたが、なんといっても吉田さんの『今ここで認知症予防をやらなくてはならない』という強い情熱と使命感がプロジェクト全体を支えつづけたと言わねばならない」
プラズマローゲン物語(37) MCI32人でグループ活動
2004年3月から開始した安心院プロジェクト第二次調査は認知症診療を専門とする神経内科医と老年科医による詳細な問診と診察、一般的な血液検査、頭部CT、脳血流スペクトおよび詳細な心理検査のほか、ビタミン濃度や甲状腺ホルモン濃度測定を含んだ検査が行われた。その結果、初期MCIと判定された住民は64人、全対象者の5・1%にあたった。二次調査で実施した血流スペクトでは脳血管性と脳外傷性2人、合計3人を除く全例に、初期アルツハイマー病で認められる帯状回後部、楔前部と頭頂葉皮質での血流低下がみられた。
この64人の住民に対し、認知症進行予防活動研究への参加を呼びかけた。この説得も大変だった。そのうち32人が2年間の研究プロジェクトに趣旨に同意してくれた。その32人は18人を予防活動グループ、残りの14人が予防活動をしない従来通りの生活をする対照グループにランダムに割り当てた。両グループの年齢、教育年数に有意差はなかった。
この予防活動グループは参加住民間の相談で「安心院けんこうクラブ」と名前がつけられた。活動計画は参加者間の話し合いにより作成され、実行された結果は、福岡大学研究スタッフにより評価を受け、クラブの参加者たちは達成感が感じられる活動グループとして徐々に成長していった。
活動開始後3か月は、使用されていない古い民家をリフォームして活動の拠点にふさわしい「安心院けんこうクラブ」となるよう自分たちの力で整備した。栄養士の指導を受けて自分たちでメニューを決め、食材の手配から調理まで行う料理教室と、スポーツインストラクターの指導のもとで、踏み台昇降やケアビクスなどの有酸素運動療法を行った。補佐役として、安心院町役場のスタッフである保健師や看護師3人が見守り活動に参加した。
約3年後から一貫して1人のファシリテ―ターと1人の運動指導員によって活動を見守った。4年目以降から福岡大学との関りはかなり減少し、自主的な活動に発展していった。安心院プロジェクトは、このように自主的・創造的な点が特徴で、その原則的活動方法は東京都老人研究所の矢富直美主任研究員のアドバイスに従い、「安心院けんこうクラブ」では注意力、記憶力の向上を目指した。
社会的・積極的レジャー活動の内容は、NHKテレビの「難題解決!ご近所の底力」「ためしてガッテン」でも取り上げられた。料理活動のほか、小旅行、ケアビクスやステップ運動などの有酸素運動、運動会、ゲーム、パズル、ビンゴ、トランプ、折り紙、連想ゲーム、学習レジャーなどがあり、認知能力を上げる方法のひとつとして「デュアルタスク」を取り入れている。デュアルタスクとは、2つのことを同時に行うことで、その有用性が国立長寿医療研究センターから発表されたものだった。例えば、歩きながらしりとりをしたり、歩きながら計算をしたり、運動と脳トレを同時にやれば主として注意力と記憶力につながるとされている。これらは、いずれも参加者が企画し、役割を分担し、さまざまな組み合わせで準備したものである。
朝9時に健康チェックを行い、500円の会費を徴収、その後活動が開始される。午前11時からは昼食準備、メニューは各自で相談して決める。昼食後は有酸素運動でおおよそ15時には終了。週に1回のペースで、構成員は1クループが8人から10人を原則としている。またすべてがMCI住民ではなく、初期の3グループ(火、木、金曜グループ)には健常者も加わり、時には介護認定で自立できると判定された超早期アルツハイマー病住民も含まれた。以上のような活動内容だったので、ほとんど脱落者もなく長期間にわたって続けられた。