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プラズマローゲン物語 (42) (43)を掲載しました。

2021.11.29プラズマローゲン物語

プラズマローゲン物語(42) 臨床試験を支えた医師、蒲池真澄

2017年1月25日13時51分、朝日新聞デジタルが「東芝病院、売却を検討 債務超過回避狙い」というショッキングな見出しで次のようなニュースを流した。

「米国の原発事業で巨額損失を計上する見通しとなった東芝が、所有する東芝病院(東京都品川区)を売却する方針を固めた。巨額損失による債務超過を回避するために事業や資産の売却を急いでおり、病院の売却もその一つ。東芝病院は1945年に開院した企業立の総合病院で、現在は一般の人も利用する。病院のホームページによると、内科、外科など約20の診療科があり、病床数は約300床。CT(コンピューター断層撮影装置)や、MRI(磁気共鳴画像装置)など、キャノンに売却した医療機器子会社の装置を多く備えている。損失は7千億円規模にのぼる可能性があり、東芝は3月末までの資金捻出を急いでいる。中核の半導体事業を分社化して株式の一部を売却するほか、上場するグループ会社の株式の一部売却なども検討している」

この東芝病院をポンと285億円を出して丸ごと買い取った医師がいる。年間医療損益2億⒎900万円の赤字病院と知った上での話である。東芝病院の売買手続きは翌2018年3月末までに完了し、同年4月1日から、装いを改め東京品川病院として再スタートした。

この病院を買い取った医師は、2010年、経営に行き詰った佐賀県武雄市の市立武雄市民病院を譲り受け再建させただけでなく、新たに屋上に救急ヘリ用のヘリポートを備えた6階建てのビルを新築し「24時間・365日体制」の新武雄病院として再スタートさせた実績を持っていた。

この医師の名前は蒲池真澄。蒲池は1940年生まれ、藤野武彦と同じ世代の九州大学医学部出身の医師だが、これほどお互いに対照的な生き方をした医師も珍しい。もちろん性格も正反対で専門は外科と内科。それでも妙なところで馬が合うというのだから不思議といえば不思議な関係だ。

2人の関係が一致していたのは医学部の「学位拒否闘争」まで、藤野はかろうじて第一内科の伝統文化に守られて医学者の道を歩いてきたが、蒲池は自ら旧体制の大学医局に見切りをつけて九大を飛び出しメス1本の世界に生きてきた。大学院3年のとき藤野と一緒に学位拒否闘争を闘ったが、藤野や馬渡の1年後輩にあたるために役員には名を連ねてはいない。だが大学紛争が終わってからも教授から「君は戻って来なくてよい」と「破門」を宣告された。さばさばした気持ちで大学を出た。蒲池はそのときすでに、一人前の医師として食っていく自信があった。入局1年目に派遣された系列の新小倉病院ですでに「胃袋の切り方」をマスターしていた。医局にいたら、まず1年目で胃袋を切らせてもらうことなどありえない。

新小倉病院で蒲池の指導に当たった外科部長の赤岩道夫は、徹底したプラグマティストだった。病院に派遣された翌日、いきなり「君、胃袋を切ったことあるかね」「いや切ったことはありませんが、先輩たちの手術を見て手順は知っています」「そうか、では明日胃がんの手術をやるから君が執刀しろ」という具合だった。「手術を覚えるのは早ければ早いほどいい」が赤岩の持論で、翌日の手術では終始蒲池の横に付き添って、自分はメスを取らずに手取り足取り指導してくれた。医局にいれば、まずこういうことはあり得ない。執刀医としてメスを取らせてもらうのは講師になってからである。

その「恩師」に当たる赤岩自身が医師としては毛色が変わっている。九大医学部に脳外科の新領域を欧米から初めて導入した第一外科教授赤岩八郎の次男に生まれ、兄弟はみな医学部に進んだが、道夫だけが第一高等学校から東京大学理学部数学科に進んだ。しかし戦後の食糧難の時代、飢餓感にさいなまされ文字通り「数学では食えん」と九大医学部に舞い戻って来た。一高、東大時代の同期生には、後のノーベル物理学賞の小柴昌俊がいた。九大医学部の医局時代には「学位を取るのに4年も5年もかけるのは時間の無駄」とわずか一晩で学位論文を書き上げたとしいう逸話が残っている。

「笑気麻酔中の酸素濃度の変化を数字にできないか」という教授の一言がヒントになった。当時、全身麻酔は笑気を使っていたので、手術中酸素と笑気を送り続けなければならなかった。酸素の濃度がある領域より下がると脳が危険な状態になるので、酸素の濃度を上げなければならず、それに応じて笑気の濃度も上げなければならない。当時、笑気は高価なものだったので、簡単にいうと高価な笑気をいかに節約するかという非常に現実的なテーマだった。もともと数学が得意の赤岩は、一晩で「笑気麻酔時における吸気中の酸素濃度の消長および少流量による笑気麻酔について」を書き上げた。しかし、学位論文である限りそれだけではだめで、それを実証する実験やデータが必要だ。当時、赤岩は福岡市内のあちこちの病院で麻酔のアルバイトをしていたので、データやサンプルはそこで簡単に手に入る。しかもアルバイトをすればするほどデータも増え、報酬も増えるのでまさに一挙両得、一石二鳥の学位論文になった。九大病院もこの赤岩論文のおかげで、笑気代をかなり節約できたはずである。赤岩に言わせれば「まさに一石三鳥」。この1930年2月3日に書かれた論文は現在も九大医学部に残っている。

赤岩と蒲池の師弟関係は蒲池が20代半ばのときから始まって、70代後半に至るまで続いた。蒲池は「学位拒否闘争」の闘士の1人として最後まで九大に戻らず、文字通り学位論文とは無縁の生き方をしてきた。後に病院経営者として成功してから、医師を雇う際、「博士号を持っている医師は、持たない医師の給料より安くしろ」と事務長に言い渡しているという逸話がある。その理由は「20代半ばの一番大切な時期に患者を診ないで、研究室に閉じこもって論文を書いていたハンディがあるからだ」と言い切ったという。嘘か本当かわからないが、いかにも蒲池なら言いそうなことだ。大学の医局では得られない赤岩と蒲池の師弟関係は赤岩が70代、80代になっても続き、蒲池は赤岩をグループ病院の名誉院長、看護学校の校長として遇した。かつて赤岩の親友小柴昌俊がノーベル賞を受賞したとき、小柴は赤岩が校長をしている看護学校を訪れ、生徒の前で次のような講演をしている。

「赤岩さんは特に数学がよくできる学生でしたが、途中で九大医学部へ転向してしまいました。数学では優秀な人でしたが、医学では優秀であったかどうか知りません。思い出としては、私がカメラ関係の会社でアルバイトをしていたころ、ある条件を満たすレンズの絞りの羽根の曲線の設計を頼まれました。難しい計算が必要でしたので、赤岩さんに相談したら、すぐにこうしたらと良いヒントをもらい、おかげでよい設計ができました。それを会社に出したら、いくらかの報奨金をもらいましたが、赤岩さんには分け前をあげてはいません」とユーモアたっぷりに語っている。

 藤野が「自由度が高くなければ研究はできない」とした第一内科の6代教授山岡憲二を生涯の師と仰いでいるように、蒲池は少々奇矯な道を自由に歩いた赤岩を生涯の師として、その死を看取るまで付き合った。

プラズマローゲン物語(43) 病院グループのCEOに

蒲池真澄は、各地の自治体病院や福岡大学病院を渡り歩き1974年、34歳のとき下関市で開業医として独立した。小さいながらも念願の一国一城の主になったと言っていいだろう。

それも潰れかけた19床の中古医院を買い取ってのスタートだった。買収額は1億1千万円、郷里の山林を売って充てたが、あとは借金でのスタートだった。その拠点とした19床の中古病院が、時代のニーズに応える「24時間・365日体制」の救急救命病院として成功。40数年後には九州北部から関東一円まで拡大し、カマチグループの病院数は27施設、ベッド総数4952床を数える大病院に拡大した。この数字を示すだけで蒲池とはどういう人間かうかがい知ることができるが、彼には首尾一貫した信念があった。それは開院当初から「厚生省の政策を10年先取りして動く」に徹してきた。その信念を持ち前の「合理的精神」に裏付けられれば、まさに「鬼に金棒」というわけだ。もちろん「患者第一主義」という考え方は言わずもがなではあるが。

合理的精神といえば開院当初、こんな逸話がある。スカウトしてきた福岡大学病院の元看護婦長と一緒に開業準備のための医療機器を買いそろえに行った医療機器会社で、いきなり「そんな立派なものでなくていい。動物実験用のやつはないのか」と切り出したという。借金をしての開業なので、できるだけ予算は切り詰めなければいけない。さすがに動物実験用は購入しなかったが、あとで蒲池から説明を聞いて、そのベテラン婦長は納得した。「動物実験用といって馬鹿にしちゃいけない。製品になる前の段階だから実験に失敗しないように細心の注意を払ってつくってあるはずだ。完成した商品と違うのは、ただ美しい塗装がしてあるかいないかの違いだけだ」。ベテラン婦長は九大病院や福大病院で多くの医師と仕事をしてきたが、こんな感覚をもった医師に出会ったことはなかった。むしろ予算が足りなければ、自分たちの創意工夫でなんとかやっていこうという蒲池の新鮮さに驚きを覚えた。

青年院長が自ら病院に泊まり込んでの24時間体制の病院として成功した。蒲池のユニークなところは、命を助けるだけでは満足せず、その後のリハビリテーションを重要視した点である。例えば脳卒中で運び込まれてきた患者の命を救ったとしても、3か月間寝かされたままでは廃用性症候群で社会復帰が絶望的になる。これを急性期と回復期を同じ病棟で行うシステムにすれば患者の社会復帰の可能性も高くなると考えた。いわゆる、後にリハビリの主流になる「ベッドサイド」からのリハビリである。だから開院当初から、小さな病院にもかかわらず理学療法士や作業療法士を置いた。当時はまだリハビリの診療報酬が「簡単なもの」40点、「複雑なもの」80点という時代であった。診療報酬の点数の低さからリハビリに力を入れる病院は珍しかった。そして1987年、福岡市に3番目の病院を新設するときは、急性期343床に対して回復期26床とリハビリ専用のベッドを新設した。その後も新しい病院を開設するときは回復期ベッドを併設した。もしくは近くにリハビリテーション病院を開設した。

当初から蒲池は「リハビリの診療報酬の点数が低いのは国の怠慢だ。リハビリが早ければ早いほど、また理学療法士や作業療法士の質が高ければ高いほど、患者の社会復帰が早くなる。そして彼らが働いて税金を納めるようになれば、それだけ国の財政は豊かになる。さらに寝たきり老人の数が減れば、それだけ財政の出費が少なくなる。厚生省の役人は、そんな単純な計算もできないのか。なあに、そのうち彼らもきっとわかるときがくるさ」と考えていた。自分の考え方が間違っていないことに自信があった。

そのうち80点だった診療報酬の点数が、1981年には300点になり、2002年には660点になった。1988年には心臓リハビリ点数が新設され、2000年には回復期リハビリテーション病棟の新設が認められるようになった。現在、カマチグループの回復期リハビリテーション病院の数は急性期病院の13施設を凌ぎ、関東で12施設、九州山口で2施設、急性期病院の中に回復期リハビリテーション病棟が有する施設が6施設、合計20施設、病床数は3000床を超えており日本最大のグループになった。そこに勤務する理学療法士、作業療法士、言語聴覚士も2700人超と日本最大規模である。それらを育成するリハビリテーション専門学院も5校を数えるまでになった。