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プラズマローゲン物語 (44) (45)を掲載しました。

2021.12.06プラズマローゲン物語

プラズマローゲン物語(44) 進取の気性と好奇心 

開業当初は「動物実験用の機器はないか」といっていた蒲池だが、病院経営が軌道に乗ると、積極的に他の病院に先駆けて最先端の医療機器を導入するようになった。

病院の利益が出たらその分、患者のために還元するというのが蒲池の信念だ。ときにはすぐには利益が見込めない医療機器でも利益を度外視してフライング気味に導入したこともあった。保険の効かないものでも、よい結果を生むと判断したら率先して導入した。蒲池にいわせれば「導入して症例の実績を出せば、厚生省は必ず保険医療として認めてくれる」という考え方だ。その一番いい例が、1995年の「ガンマナイフ」だ。ガンマナイフとは、一口でいうと頭部の腫瘍に放射線を集中的に当てて治療する機械で、①開頭しなくて良いため患者への負担が少なく、全身状態の悪い患者や高齢者でも治療できる②脳深部など手術できなかった部位も治療でき2泊3日の入院ですむ、というメリットがある。保険が効かない治療でも、どう考えても患者のメリットの方が大きければ導入するというのが蒲池のやり方だ。

当時、ガンマナイフは1990年に東京大学が治験機として日本で初めて導入していたが、九州・中国地方で導入している病院は一つもなかった。保険も効かない7億円もする医療機器の導入に、理事会では採算が取れないとして理事全員が反対した。だが蒲池1人諦めない。この頃になるとカマチグループはCEO(最高経営責任者)の一存で物事が決定される時代ではなく、すべてが理事会の決定が優先するようになっていた。最後は「ガンマナイフはまだ知名度が低い。そこで九州大学病院や熊本大学病院などの各大学病院が患者を回してくれるという確約が取れれば導入してもよい」という条件が出された。九州大学と熊本大学が果たして「うん」というかどうか。蒲池は20年前に九大を飛び出して、医師会や大学病院の権威を向こうに回して「一匹狼」でやってきた。九大や熊大の権威ある牙城を民間病院経営者がどう攻め落とすことができるか。周りが危惧の念をもって見つめていたのは間違いない。ところがうまくいったのである。

医学部紛争から25年もたてば、当時の教授たちはすでに大学を去り、かつての蒲池の仲間たちが教授や助教授になっている。一度は九大に反旗を翻した青年医師たちも九大に戻れば、それだけの道は開けるようになっている。医学部紛争を身をもって経験しているだけに、かつてのガリガリの権威主義者ではない。お宅にそんな立派な医療機器があるのなら、使わせてもらわない手はないという九大や熊大の教授が出てきてもおかしくない時代になっていた。九大と熊大の協力を得て、導入初年度はガンマナイフ治療の症例は103症例だった。以後、保険が効くようになると毎年増え続け、10年後の2004年には治療累積症例数は4200症例を超え、病院の「目玉商品」の一つになった。

 蒲池真澄の「新しもの好き」の傾向は生来のもので、50代後半になっても一向に止む気配はない。1995年、1人で渡米してアビオメッド社の開発した新しい補助人工心臓「BVS5000」の日本での販売権を購入してきたことがある。

従来の人工心臓は手術中に拍動の調整ができないので患者への負担が大きいが、BVS5000は患者の状態に合わせて自動調整ができるので患者への負担を小さくするという特長がある。こういう情報を得ることにかけて蒲池は聡い。今回の情報はクリーブランドクリニックの外科部長をしている九州大学時代の後輩から得た。その新型人工心臓の販売権を得たわけだが、日本での治療実績がゼロなので厚生省の公認許可が下りない。しかたがないので厚生省から担当医師の個人使用の許可を受けたが、それを実際に臨床で使用するチャンスはなかった。2年後の1997年2月にやっとそのチャンスが訪れた。劇症型心筋炎でほぼ心肺停止状態の患者に対し、BVSを使用して11日目に回復させることに成功したのだ。1997年3月9日付けの読売新聞朝刊は「人工心臓で劇的蘇生 福岡市の病院 十一日目に心拍回復」という見出しで大きく取り上げている。

記事は最後に「この人工心臓は自己の心臓を安静にできるため回復期の障害が少ない。海外では米国を中心に二千以上の症例がある」と結んでいる。だがその後に識者コメントとして、藤野武彦・九州大学健康科学センター助教授の話「措置が適切でなかったら危険だった。内科と外科の的確な連携で救命に成功したケースだ」が掲載されている。なぜ藤野のコメントなのか、その理由ははっきりしない。藤野が心臓の専門家である限り、新聞記者がコメントを載せてもなんの不思議もないのだが、2人の関係をよく知っている者はニタリとしたに違いない。2人の関係は医学部紛争以後一時途絶えていたが、蒲池が福岡に本拠地を構えるようになってからは再び親交が始まった。特に2人を親密にしたのは、お互いに囲碁好きという共通点だった。学位拒否闘争のときは1年先輩の藤野がリーダーだったが、今の2人の関係は蒲池に言わせれば「今の藤野さんは、おれの碁の弟子になってしまった」という。

その後、BVSを使う症例が3件続いたので、その症例をまとめて論文にして発表する一方、BVS5000の販売の公認許可を得るために厚生省に日参した。当時、厚生省では薬害エイズ問題で元製剤課長が逮捕されたばかりで厚生省自体がナーバスになっていた時代で、なかなか公認許可が下りず、やっと許可が下りたのは3年半後の2001年7月のことだった。

5年後の2006年6月までに約100か所の医療施設がBVS5000を導入している。実際に臨床使用した件数は86症例。そのうえ最悪の状態を脱して自力で拍動機能を取り戻した「ウイニング率」は全体の46%、自力で歩いて退院するまでに回復した比率は28%だった。この補助人工心臓で特別な利益を上げたとはいえないが、この新しい医療機器のおかげで数10人の命が助かったことだけは確かなことだ。病院経営だけでなく、こういう、人が聞いたら突拍子もない事業欲を満たすことで蒲池は満足を覚える男だった。藤野武彦とは明らかに生き方が違う男だったが、藤野の人間関係の広さを語るうえで、どうしても触れておかねばならない人間の1人であった。

もちろん蒲池はこの時点で、まだプラズマローゲンの存在を知らないし、馬渡もまだ鶏肉から大量のプラズマローゲンを抽出する方法を発見していない。

プラズマローゲン物語(45) 藤野と馬渡と蒲池と山田の関係

蒲池真澄という医師としては少し破天荒な男の話に時間を割きすぎて、プラズマローゲンの話から遠ざかってしまったが、再びプラズマローゲンの話に戻ることにする。

2007年に馬渡志郎が鶏の胸肉からプラズマローゲンの大量抽出・精製に成功してから藤野武彦が後輩の片渕俊彦を研究仲間に引き入れたころ、蒲池真澄もふとしたことで山田達夫と知り合った。ふとしたこととは結婚式場であった。山田と蒲池は、偶然同じ席に座り合わせた。そこでお互いに名刺を交換して、昵懇の間柄になった。蒲池にしてみれば、病院グルーブは拡大の途にあったので1人でも多くの新しい人材が欲しい、山田にとっては教え子のため1つでも多くの「就職先」が欲しいという現実的な問題もあった。蒲池には福大の医学生を研修医としてカマチグループの病院に迎え入れるというメリットもあったが、山田という認知症専門医をグループのスタッフとして招聘しようという意図もあった。当時、蒲池はリハビリテーション病院の新設を展開していたので、当然脳梗塞や心筋梗塞などの回復期病棟には脳血管性認知症患者や軽度認知障害の患者も少なくない。今後、どうしても認知症専門医が必要になってくることは明らかなことだった。

それに蒲池は2008年に「巨樹の会」という一般社団法人を設立した。巨樹の会は「大きく根を張り、幹と枝を大きく伸ばす樹木のように日本の医療に大きく貢献する」という大きなキャッチフレーズを掲げていたが、その実態はまだ漠然としたものだった。蒲池にすれば、とにかく「日本の医療に貢献したい」という信念が先行し、あとから実態がついていくという組織だった。その信念を実行するには学問分野を超えた学際的な人材が1人でも多く欲しいときだった。外科医出身の蒲池にとっては、認知症という分野はまったく未知の分野だっただけに、認知症の「非薬物療法」を主張する8歳年下の山田という人物に興味があった。いずれは巨樹の会のスタッフにスカウトして学際的な研究を任せようという考えもあった。山田は山田で、蒲池という一風変わった医師に関心をもった。大学に入って以来、医学の学究の徒として生きてきた山田にとって、権威や権力が表看板の大学病院や学会では絶対に出会うことができない、権威や権力に物怖じしない蒲池の粗野な態度に惹かれるものがあった。いずれにせよ山田と蒲池の関係ができ上がると、必然的に藤野や馬渡との関係もでき上った。

蒲池から藤野を紹介された山田は、さっそく自分たちの認知症の講習会に「脳疲労」の提唱者である藤野に講師を依頼し、逆に藤野たちの講習会に山田を講師として招くような昵懇の間柄になった。それに藤野と馬渡にとって認知症専門医の山田は貴重な存在だった。レオロジー機能食品研究所と片渕俊彦の九大生理学教室の共同研究は進んでいたが、それはあくまでもプラズマローゲンの生理学的、生化学的研究で、九大病院には肝心の認知症の専門病棟はない。動物実験を終え、これからヒトの臨床試験を始めなければいけない時期に認知症の知識と認知症患者を有する山田は欠かせない存在だった。特に「脳疲労」理論でBOOCS療法を展開している藤野と、神経内科医でありながら原則として「非薬物治療」をモットーとする山田は、臨床医として同じ理論を持つだけに、すぐにお互いの考え方を理解し合える仲になった。