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プラズマローゲン物語 (50) (51)を掲載しました。

2021.12.27プラズマローゲン物語

プラズマローゲン物語(50) 水と油、月とスッポン

九州大学出身のトップレベルの医学者の1人に笹月健彦がいる。蒲池真澄とは九大医学部の同期生だが、その生き方の違いは、蒲池と藤野武彦以上のものがある。一方は国際レベルの遺伝・免疫学者、もう一方は学位も取っていない病院経営者。だが、笹月と蒲池は学生時代からの親友同士で、今でも2人きり水入らずで、おでん屋などで酒を酌み交わす「おれ」「おまえ」の間柄なのだ。その2人の関係を周りの人間は訝しがるだけで、ほとんど理解できない。

笹月は蒲池と同じ高校で学び現役で医学部に入学した。だが笹月は医学部を卒業してから九大の大学院には進まず、東京医科歯科大学の大学院に進んだ。けっして九大が嫌いだったわけではないが、九大よりも東京医科歯科大学の方がやろうとしている免疫学の研究では先をいっていたからだ。だから蒲池や藤野のように「学位拒否闘争」には巻き込まれていない。東京医科歯科大学で学位を取り、米国スタンフォード大学での3年間の留学を終え、東京医科歯科大学難治疾患研究所で、順調に助教授、教授のコースを歩いた。やがて九大に生体防御医学からの要請を受け、研究所が新設されると1984年、そこの教授に迎えられ6年後に生体防御医学研究所の所長になった。やがて2001年には東京の国立国際医療センター研究所長に招聘され、3年後には同医療センターの総長に就任した。その間、日本人類遺伝学会賞、日本医師会医学賞、武田医学賞などを受賞。2002年には紫綬褒章、2017年には瑞宝重光賞を受賞した。

九州大学では2009年に、「学問の新しい領域を切り開き、世界をリードする大学となるために」と称して「九州大学高等研究院」を設立しているが、笹月はその特別主幹教授に選ばれて就任している。5人の特任主幹教授はいずれも国際レベルの九大出身の学者ばかりで、外国人による5人の栄誉教授はノーベル化学賞のバリー・シャープレス博士他いずれもノーベル賞受賞者ばかりだ。ちなみに九大高等研究院の異色の例としては、2019年にアフガニスタンで亡くなった中村哲が、生存中の2014年に「アフガニスタンにおける用水路建設・医療活動」の功績で特別主幹教授に選ばれている。

この医学者として誰がみても非の打ちどころのない笹月の経歴に対して、親友の蒲池の経歴は毀誉褒貶がはなはだしく、見る人によって評価が違ってくる。

ただし藤野武彦だけは学生時代から蒲池への高い評価は変わっていない。そして、その藤野の蒲池評に疑問を呈する知人に対しては、「笹月君の蒲池君への敬愛の念もぼくと同じだと思う」と言うのが常である。おそらくこうこう時代から蒲池と付き合っている笹月の蒲池評もそうだろうと思っている。

藤野の蒲池評はこうだ。蒲池の人に迎合せず阿諛追従を最も嫌悪し、ときには傍若無人とも思われる粗野な態度は、権威や権力に対する反発心が人よりも数倍強いという気持ちの表れにすぎない。じっくり付き合ってみると、情に厚く繊細な神経の持ち主であることが分かる。藤野は学生時代に蒲池と碁を打っていて、見かけよりも広くて繊細な神経の持ち主だと見抜いていた。碁を打ってみるとその人の本当の性格が分かる、というのが藤野の持論だ。学生時代から碁の力量は蒲池の方が上だった。だから対局するときは、いつも藤野は5目を置いていた。いまは蒲池が6段、藤野は5段で、対局するときは藤野が1目置く。「この50年間で蒲池君に4目分だけ迫ったというわけだ。だから蒲池君には『1目』置いている」と冗談を言う。

そしてこうも言う。「笹月君と蒲池君とを比較すると、性格は水と油、見栄えと外見は月とスッポンだと誰もが思っている。だが違う。2人の根っこにあるのは同じものだよ」と。

プラズマローゲン物語(51) 臨床医の基礎講座

藤野武彦は蒲池真澄の病院を訪れて会長室で、よく一緒に昼食をとることがある。もちろん入院患者と同じ食事だ。その食事がいつ行ってもうまいのに感心した。どうしてこの病院の飯はうまいのか、その理由を蒲池に訊いたことがある。

「なあに簡単なこと。毎日ウチの病院で精米した米で飯を炊いているからですよ」といとも簡単な答えが返ってきた。米というものは精米してから時間がたてばたつほど空気にふれてまずくなる。精米したてが一番うまい。痛みがとれて回復期にある入院患者にとって一番の楽しみは食事だ。その楽しみを満足させるのも病院の務めのひとつだと蒲池は考えている。「脳疲労概念」で「快」の原則を提唱している藤野には納得いく答えだった。「別にお金をかけて特別なメニューでなくても、日本人なら米のメシがうまければ、すべてがうまくなる。精米機などは高価な医療機器とは比較にならないほど安いものですよ」と蒲池は簡単に言い切る。それから「飯がうまければ病院の評判も高くなる」と付け加えるところが、いかにも蒲池らしい。

「患者ファースト」の病院だとは聞いていたが、こんな小さな気配りの積み重ねの結果だということが分かった。それに看護師教育を徹底させていることも要因だろう。そのことは蒲池が病院経営に成功してイの一番にやったことは、自分の理想とする看護師を養成するための看護学校をつくったことでも分かる。医師が患者に接する時間よりも、看護師が患者に接する時間の方が数10倍も多い。患者にとって病院の良し悪しは看護師によって決まるといってもいい。藤野も教授になって病院を回診するとき、医師のカルテを見るより看護師のカルテ(看護日誌)を見ることが多かった。医師のカルテはあくまで自分のためのメモにすぎないケースが多く、患者の病態を知るには看護師の日誌の方がより参考になったことを思い出した。

看護師の教育も徹底していたが、研修医の教育も徹底していた。国家試験をパスした医師に対して、病院の廊下などで「腸閉塞には2種類あるが、それぞれの症状を述べよ」「2000㏄の出血があった場合の臨床症状を述べよ」などと、ごく初歩的質問をして少しでも言いよどんだり間違えると、正解できるまで繰り返す。プライドのある医師にとってはたまったものではない。あるとき藤野は、蒲池が若い医師を激しい勢いで叱責している場面に出会ったことがある。

「なぜ君は患者さんが痛いといっているのに、痛みを取り除いてやらないんだ」と蒲池。「いたずらに鎮静剤を打つと、患者の生体から出されているシグナルを消す恐れがあります。そうすると正確な診断ができないからです」と若い医者が答える。「だから患者に痛みや苦しみを我慢しろというのか。大学ではそう習ったかも知れんが、ここでは違う。痛みを取ったら正確な診断ができないのはヤブ医者だ。生体からの少々のシグナルが消えても、診断できるのが本当の医者だ。だいいち診断は医者のためのものであって患者のためのものではない。患者さんにとっては診断なんてどうでもいい。痛みや苦しみが治ってくれればね」。それからトーンを落として、蒲池は若い医師に言葉をかみしめながら言った。「患者さんの痛みをとってやることは、まさに治るためには良いこと尽くめだよ。患者さんは痛みが取れれば心も落ち着き、食事も睡眠も安定して、患者さんの病気と闘う気持ちも高まっていくもんだ。それが医者のできる本当の治療というもんだよ。病気を治すのは医者でなく、患者さんの自己治癒力なんだ」

この言葉のやり取りを聞いていて、藤野は大学病院の研修医時代、痛みを訴える患者に鎮静剤を与えて「安易に鎮痛剤を与えてはだめじゃないか。患者さんの正しい診断ができなくなる」と先輩医師から何度も叱られていたことを思い出した。この蒲池の治療に対する基本方針も、「脳疲労」概念BOOCS法の基本方針であることを実感した。このときから、藤野は臨床医の基本を習得するのは大学病院よりカマチグループ病院の方がより適格ではなかろうかと思うようになった。この若い医師を叱った場面のように、若い医師だけに厳しいわけではない。知識や技術だけを売り物にする権威や権力に対してはもっと厳しい。だからこそ、カマチグループの若い医師たちは蒲池についていけるのだ。