BOOCSブログ
プラズマローゲン物語 (60) (61)を掲載しました。
2022.01.31プラズマローゲン物語
プラズマローゲン物語(60) ひとつの病院モデル
蒲池真澄は山田達夫からプラズマローゲンの効果を聞いて、「藤野さんや馬渡さんは、人間はいいけれども学者バカだから、2人言うことは信用できん。だが山田さんの言うことなら信用できる」と冗談とホンネともつかないことを言いながら,プラズマローゲンの普及に積極的に力を貸すことにした。
資金援助は二重盲検試験が行われた2014年の前後2回にわたり、合わせて1億円。それもカマチグループからでなく、蒲池自身が個人名義で行った。その理由は「病院グループはあくまでも公益法人だから、そんなあやふやなものには援助できん。だが個人でならリスクはあるが、だれからも文句のつけようはない」と説明する。なぜ個人的にそんなに援助をするのかと問われたら、「藤野さんのお陰でおれは九大を破門されたのだからな。その『恩』がある」という回りくどい言い方しかしない。素直に「藤野さんのお陰で、今日の自分がある」とは言えない性分なのだから仕方がない。
もう一つの協力方法は医療現場での支援体制だ。カマチ病院グループは九州、関東地方に27施設、ベッド数5000床、外来患者5万人、医療スタッフ・職員数1万3千人。これらグループでプラズマローゲンを活用している。必ずしも強制しているわけでなく、なかには「薬品でなくサプリメントなのでちょっと使いづらい。だいいち保険の点数もない」という院長もいるが、そこは院長の裁量にまかしている。だがグループの中に山田達夫がいることは心強かった。「山田先生がそこまで言われるのなら」とそれまで消極的だった医師が、積極派に転じるケースも多い。一部のリハビリテーション病院では、プラズマローゲンを希望する患者には3週間無料で提供し、調子が良いと本人や家族が思えばあとは有料で提供した。
医師や医療スタッフが患者に直接投与する方法は数に限界があるが、医療スタッフや職員の口コミによる効果は計り知れないものがある。なにしろ1万3千人の「宣伝員」がいると思えばバカにできない。グループの本拠地・福岡和白病院の看護部長をしている早川明美は、そのことを実感した。長く看護師をしているので、病院外の知人や友人から医療についてのアドバイスや相談を受けることが多い。最近は50代という年齢がら、両親の認知症についての相談が多くなった。そこでプラズマローゲンを勧めると、その評判がすこぶるよい。早川にとってプラズマローゲンは「薬品ではないので看護師として薦めづらい面もあり、逆にサプリメントだから友人として気安く薦めやすいという面もあった」。だが、その効果についてのお礼や感謝の手紙が早川のもとにどんどん来るようになった。その1つを紹介すると、
「母(80歳)が飲み始めて2か月たちましたが、以前とは違ってソファーに座ってぼっーとしていることもなく、昼間からベッドに寝ていることも見なくなり、以前のように畑仕事をするまでになっております。正直、物忘れが劇的に良くなったわけではありませんが、空間を見つめて、表情もなく、無の状態で、ただ座っている姿がなくなっただけでも、これからも飲ませ続けていきたいと思っています。このプラズマローゲンのおかげで、母は母らしい生活を取り戻せ、私は今までより少し母に寄り添いながら、好きな仕事をできています。本当に感謝しています」
この手紙のように「物忘れが劇的に良くなったわけではないが」としながらも「母らしい生活」を取り戻したケースへの感謝の手紙がほとんどだ。早川の友人は職業柄、他の病院の看護師や元看護師が多い。この手紙もベテラン看護師からのものだ。彼女たちは、医療知識は人並み以上に持っているのにかかわらず、母親が医師から認知症と診断されて家庭に戻されると、実際にどうしたらいいか分からないというのが現実だ。こうしたことから、プラズマローゲンは病院での治療用としてより、家庭での使用の方がより重要ではないか。そのようなことを早川は蒲池に報告した。蒲池もその早川の意見には同感だった。これまで病院内で、「私にはもうリハビリなんてどうでもいい」とリハビリテーションを億劫がっていた患者がプラズマローゲンを飲むようになってから、自ら進んでリハビリ室に足を運ぶようになったケースに何度も出会っている。プラズマローゲンは単なるMMSEの点数改善のためだけのサプリではないと思えてきた。
プラズマローゲン物語(61) 認知症の驚くべき改善
藤野武彦は九州大学医学部の教授時代も自ら患者を診ることを重要視していたが、九大教授を辞めてからも、患者を診ることを止めてはいない。時間が許す限り、福岡市にある自分のBOOCSクリニックにはできるだけ顔を出す。プラズマローゲンの開発にかかわってからはなかなか診察の時間がとれないが、それでも最低週に1回は診察室に足を運ぶことにしている。
これまで患者を診察することで医学上の啓発を受け、さまざまなヒントを得ることができた。かつて多くの患者を診ることによって、「脳疲労」概念に到達することができたし、プラズマローゲンを開発してからは、プラズマローゲンを使ったいろいろな治療法を工夫してきた。多くの患者を診ているうちに、30年前に提唱した「脳疲労」からさまざまな病気は起こるという仮説に確信が強くなってきた。そして実際に「脳疲労」の患者のプラズマローゲンは減少していることが分かってきた。ということは、プラズマローゲンが減少すれば「脳疲労」に至り、それがさまざまな病気となって現れる。だからクリニックに来る患者には、バイオマーカーで血中のプラズマローゲンの濃度を測定することにしている。普通の病の検診で血中のコルステロールや血糖値を測定するのと同様である。プラズマローゲンのバイオマーカーは馬渡志郎の開発改善のおかげで年々簡便になっている。
クリニックを開設した当初は、まだプラズマローゲンを開発していなかったので一般内科、糖尿病内科、循環器内科、心療内科、神経内科などで、特にダイエット目的の患者も多かった。その後プラズマローゲンの臨床試験で実績が出てからは、認知症外来、睡眠障害外来などを設けた。そうすると他の神経内科や精神科で改善しなかった患者や他の医療機関から紹介されて来た患者、さらにブックスクリニックの評判を聞きつけてきた神経症系の患者が増えている。なかにはプラズマローゲンで藤野自身が驚くほど症状が改善した症例も多い。数多くある症例の中から藤野が特に印象に残ったという3例をあげてみよう。
1例目の70歳の男性患者は2015年3月、夫婦連れでクリニックにやって来た。軽度認知障害と診断されてから10年目で、抗認知症薬は飲んでいないようだったが、リスパダール(抗精神薬)とゾルピデム(睡眠剤)の副作用で言葉も少なく、顔の表情もぼんやりとしていた。初診段階でMMSEの点数は4点と重度のアルツハイマー病だった。プラズマローゲンを与え、本人には「奥様に感謝しましょうね」と伝え、夫人には「介護疲れで落ち込まないように。できるだけ1人になる時間をつくって、ご自身を大切に」と言って帰した。1か月後の診察ではMMSEは4点と変わらなかったが、幻覚が出る症状は改善されていた。本人には「奥様が毎日の食事や生活を助けてくださっています。食後に『ごちそうさま』の言葉を言って、奥様を元気づけてください」と言って帰した。
初診から2か月後の診察では、MMSEは2点上がって6点に改善していた。そして驚いたことは、夫人が「主人が私に対して『すまんね』とたびたび言って、一度などは『ありがとう』といってくれたのです。先生、主人は治る可能性があると思います」と目を輝かして言ってくれたことだった。さらに驚いたことは、本人から不意に出た「ここでもう、命を終わらせたいと思っていましたが、間違っていました」の言葉だった。これほど医師を喜ばせる言葉はない。本人はこれまで、妻を苦しませ、妻とのコミュケーションを絶たれたと思い込み密かに「死にたい」と思い続けていたのだ。認知症になったらなにも分からなくなるなんて間違いである。本人はちゃんと分かっているのに、それをうまく表現できないだけだ。それが妻に「ありがとう」という言葉をかけられたことで、それまでの「死にたい」は消えてしまった。こうした心の回復は、とてもMMSEの点数では表すことができない本当の回復だと藤野は思った。
初診から3か月後、MMSEの点数はさらに1点上がって7点。重度のアルツハイマー病患者が3か月で3点も上がるとは非常に稀有なことだ。本人の表情も非常に落ち着き、会話もスムーズにできるようになった。夫人は「3か月前までは認知症の進行は進む一方だと感じていましたが、進行が止まりました」と本人以上に元気を取り戻していた。この例は非常にうまくいった例だが、残念なことがひとつある。この患者は元開業医師で10年前にMCIと宣告され「あと3年で何も分からなくなるから仕事をどうするか考えておいたほうがいい」とアドバイスされたという。そこで病院を閉鎖し、自分で医師であるだけに抗認知症薬をいろいろ使用し症状を悪化させた。その時点でプラズマローゲンを使用していれば、と藤野は残念でならない。しかし10年前といえば2005年、まだプラズマローゲンは、この世に「誕生」していない。