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プラズマローゲン物語 (64) (65)を掲載しました。

2022.02.14プラズマローゲン物語

プラズマローゲン物語(64) 新しい発症仮説の提唱

藤野武彦たちの研究チームは「医学ジャーナル」に、これまでに得た臨床研究のデータをもとにしたプラズマローゲンと諸病状との関係性を研究論文としてまとめて発表し続けている。プラズマローゲンと認知症との関連性だけでなく、パーキンソン病、糖尿病、心臓病、メタボリック症候群などその範疇は多岐にわたっている。ただその諸疾病に共通していることは、患者のプラズマローゲンの血中濃度が極めて低下しているということだ。

そのプラズマローゲンの血中濃度を高めてやれば、それらの諸症状を改善するということがこれまでの数々の臨床研究で明らかになった。プラズマローゲンは生体の真核細胞の中にあるぺルオキシソームという小器官で作られるということはすでに分かっている。そのプラズマローゲンの生産機能が低下しているぺルオキシソームにプラズマローゲンを補充してやれば、再び生産能力を上げることもこれまでの臨床研究で証明された。井戸水を汲み上げるときの「呼び水」と考えれば分かりやすい。活性化したプラズマローゲンは脳の神経細胞の炎症を防ぐ作用をし、さらに脳の神経細胞を再生させることもできるということは片渕俊彦のマウスでの実験で証明されている。神経細胞の炎症というのは、ストレス(情報)などの刺激で脳細胞が動き出すとき酸素が必要だが、この時に活性酸素が出やすくなり、神経細胞の酸化につながる。酸化とは分かりやすく言えば、サビついてしまうということだ。この神経細胞が動きだすとき、プラズマローゲンがすかさず飛び出し活性酸素を一身に引き受け、自分が犠牲になり死んでしまう。それがプラズマローゲンの役割だ。身代わりとなって死んでしまうと、再びぺルオキシソームがプラズマローゲンを生み出す。ヒトが元気に生きているということは、この繰り返しにほかならない。「万物は流転」するという名文句は、人体といえども例外ではない。この流れが淀むとき、さまざまな病気が発生する。

すべての病気は生体のすべての器官に指令情報を出している脳機能の疲労が原因であるとするのが、藤野の提唱する「脳疲労」概念の主旨だが、藤野はさらに「脳疲労」の原因はプラズマローゲンの減少にあるという新たなセントラルドグマ(分子生物学の中心原理)を提唱している。1991年に提唱した「脳疲労」概念と基本的には変わらないが、約30年後に改めて「プラズマローゲンの減少」という概念を追加したというところだろう。

これまでの認知症、特にアルツハイマー病は脳細胞にアミロイドβが沈着することが原因と考えられてきた。だからアミロイドβの沈着を抑える物質を開発すれば、アルツハイマー病の発症を阻止することができるというセントラルドグマのもとに、新薬の開発研究が勧められてきた。だが20年依然として新しい認知症の新薬は開発されていない。藤野は、その理由としてアミロイドβは単なる老廃物に過ぎず、プラズマローゲンの減少による「脳疲労」こそが、認知症のセントラルドグマなのではないかと思っている。その大きな発症仮説のパラダイムのなかでは、他のいろいろな病気と同じくアルツハイマー病はひとつの病名にすぎない訳で、アミロイドβの沈着を抑制するだけではアルツハイマー病が完治するはずがないと考えていた。

かつて2009年に三菱UFJリサーチ&コンサルティングは、藤野の脳疲労度評価の「フォーマット」を使って全国3000人の有職男女を対象とした「健康と働き方に関するアンケート調査」を実施した。「『脳疲労』は全体の3分の1、兆候のある人は約7割」という結果が出た。それも20代から60代まで5世代、同じ結果だった。この数字は12年後の今でも、増えこそすれ、減ることはない。むしろ2020年からのコロナ禍では、明らかに増えていると言える。つまり年代に関係なく現代は「脳疲労」の時代だといえる。脳疲労が高齢者では認知症、働き盛りではうつ病やさまざまな生活習慣病、さらに若い層では引きこもりや不登校、いじめの引き金になっている。これらの現代的国民病ともいえる諸症状に対処できるのは、BOOCS法とプラズマローゲン以外にはないと藤野は考えている。

いま藤野は、これまでに得た臨床研究のデータを検証して、「プラズマローゲンの減少が脳疲労の原因で、プラズマローゲンを補充すれば脳疲労は改善する」というセントラルドグマの仮説を立てて研究論文の作成作業に取り組んできた。そして2021年1月、由緒ある書籍Springer Nature eBOOK に「Therapeutic efficacy of plasmalogens for Alzheimer’s disease, Mild Cognitive Impairment and Parkinson’s disease in conjunction with a new hypothesis for the etiology of Alzheimer’s disease.」のタイトルの書籍が発売され、その最後のページを飾ったのが藤野らである。タイトルは和訳すると「プラズマローゲンのアルツハイマー病、軽度認知障害、パーキンソン病に対する治療効果とアルツハイマー病発症の新たな仮説の提唱」で、これまでの臨床試験と動物実験の結果に基づき、アルツハイマー病およびその他の神経精神性疾患の新たな発症仮説(神経炎症発症仮説)を提唱している。その書籍の要旨(和訳)は次のように書いている。

「近年、様々な疾患で血中プラズマローゲン(Pls)が減少していることが報告されているが、いずれの報告でもPlsの投与による効果を検証するヒト臨床試験は実施されていない。本稿では、軽度認知障害(MCI)、軽度、中等度、重度アルツハイマー病(AD)およびパーキンソン病(PD)患者で我々が行ったPls経口投与試験とその治療効果について詳説する。MCI(n=178)と軽度AD(n=98)では24週の多施設二重盲検プラセボ対照比較試験を、中等度AD (n=57) と重度AD (n=18)では12週のオープンラベル試験を、PD(n=10)では24週のオープンラベル試験をそれぞれ実施した。その結果、Pls経口投与後にそれぞれの疾患で、Pls血中濃度の上昇に伴って認知機能及びその他の臨床症状の有意な改善がみられた。有害事象はみられなかった。各疾患のPls投与前の血漿Plsおよび赤血球膜Plsの濃度は、健常対照群と比較して有意に低下していた。その低下の度合いはMCI ≺軽度AD ≺中等度AD ≺重度AD ≺PDの順で高かった。この結果は、Pls血中濃度がAD重症度を判定する有益なバイオマーカーとなることを示している。さらに、これらの臨床試験と動物実験の結果に基づき、ADおよびその他の神経精神性疾患の新たな発症仮説を提唱した。」その新たな発症仮説とはアルツハイマー病やその他の精神疾患は神経炎症とプラズマローゲンの減少の相互作用によって引き起こされるというものである。

かねてから藤野は、「最近の医学はすべてアメリカ発のセントラルドグマが先行していたが、そろそろは日本発があってもいいのではないか。これまでのセントラルドグマが天動説なら私の仮説は地動説。さてひっくり返せるかどうか」と80歳にして大胆不敵なことをつぶやいていたが、2年後82歳の年になって世界に向けて発信したのである。

この「プラズマローゲン物語」は残念ながらこの辺で終章にしなければいけなくなったけれども、この物語はまだまだ現在進行形だということは言うまでもないことである。

プラズマローゲン物語(65) 再びセレンディピティー

馬渡志郎のことを話すのを忘れていた。このフレーズは漱石の「坊っちゃん」の最後の有名な「清のことを話すことを忘れていた」のフレーズのもじりである。清は小説の中では表面的な出番が少ないが、「坊っちゃん」の全編が主人公の清への「思い」で貫かれている。この「プラズマローゲン物語」も馬渡がプラズマローゲンの新しい抽出法を発見していなかったら始まらなかったし、話も進まなかった。だから、この物語の終わりも馬渡の話でまとめなければ、締まりがないような気がしてならない。お許しいただけるなら、この物語のおしまいも、漱石ふうに「そうだ馬渡のことを話すのを忘れていた」というフレーズで書き出しとしたい。

藤野武彦や山田達夫や蒲池真澄は現在、いつものようにプラズマローゲンやそれぞれの「仕事」を抱えて九州と東京の間を忙しく飛び回っているが、馬渡は毎日福岡市郊外にあるレオロジー機能食品研究所に通い、プラズマローゲンの性能とバイオマーカーの改良研究に取り組んでいる。朝5時半に起き、7時過ぎには自分で運転する車で研究所に着き、ラジオ体操、スクワット、研究所の周囲を早足でのウォーキングが朝の日課だ。研究所の小さな空き地には自分で畑をつくり花やハーブを植えている。夏にはミニトマトもつくる。一見リタイアした老学者ふうだが、ひとたび研究所内に入ると、プラズマローゲンを検出した13年前のころの目の輝きに戻っている。

九州大学での「学位拒否闘争」後、藤野や蒲池はそれなりの苦労をしたが、馬渡も九大を追われてからはそれにも負けない紆余曲折の道をたどった。一時は医師として勤めていたこともある。しかし、どうしても生化学研究の思いが捨てがたかった。大学院時代に書いた論文をアメリカに送り就職活動を行い認められてコロンビア大学の研究フェローに採用されたことは、すでに本文に書いた。馬渡はアメリカ留学時の3年余の研究生活を振り返り「あの時代が最も充実感があって恵まれた時期だった」と語っている。大学の研究所の研究機材は日本ではまだ見ることのできない最新鋭の機器だったし、研究が一区切りつくと、妻とまだ幼い娘2人をワゴン車に乗せモーテルに泊まりながら、ナイヤガラの滝やグランドキャニオン、ヨセミテ国立公園、ディズニーランドなどを旅して回った。

帰国してからは、生化学研究を続けられることを第一条件に就職先を探したが、思うような研究所にはめぐり会えなかった。いくらアメリカでの研究実績があっても、九州大学で学位を取得し従順な人並みのコースをとらなかったハンディは大きかった。九州工業大学助教授に3年間、国立療養所筑後病院に副院長として6年間、NTT福岡健康管理センター所長として約7年間務めたが、仕事が忙しく、満足できる生化学研究からは遠ざかるを得なかった。研究から遠ざかれば遠ざかるほど、生化学実験への思いは募るばかりでいた。気晴らしに藤野や蒲池みたいに囲碁にも打ち込んでみたが、あまり上達せず生化学実験への思いを打ち消すことはできなかった。歳も50代半ばになった1994年、藤野の世話でやっといい話が来た。福岡女子大学では生理学や病理学、臨床栄養学など1コマ90分の講義を週に15コマやれば、あとは好きな生化学の実験ができた。講義の準備や学生へ研究テーマ与えての実験実習も大変だったが、若い学生たちと一緒にやる実験に馬渡は新しい喜びを感じた。

空いた時間は自分自身のための実験を行った。研究テーマは「細胞レベルにおける栄養学研究」。高速液体クロマトグラフィーなどの機材もこのころ買いそろえた。実験対象は細胞、それもほとんどが赤血球と、25年前のアメリカ留学時代と変わっていなかった。実験をする楽しさを馬渡は「1人で夜遅くまで、あるいは土、日曜なども実験します。どんな結果が出るか、予想通りの結果か否か、思わぬ結果かも知れぬ、などの気持ちで実験を行うのは何かゲームを行うようでワクワクします。また、新しい方法を試みる楽しみもあります。予想外の結果が出て、その理由を探すのに頭をひねるのも結果的には楽しみになっています」と語っている。

こんな福岡女子大教授時代が10年間続いた。その時代のことを馬渡は、九大医学部同期生の会報誌(2003年)に次のように書いている。

「このように、自分のテーマで自由に生化学的研究を行うことが、私にとっては女子大で初めて実現しました。英語にセレンディピティーという言葉があり、『偶然の幸運な発見』あるいは『偶然に幸運な発見をする才能』をさしています。科学上の大きな発見の多くはセレンディピティーによるものですが、ルイ・パスツールは『観察の場では、幸運は待ち受ける心構え次第である』といったそうです。別の人はこのことを『偉大な発見の種はいつも私達の周りに漂っているが、それが根を下ろすのは十分待ち構えた心に限られる』と言いかえています。『待ち受ける心構え』とは注意深い観察と洞察力(勘)のことだと思います。研究施設、研究費は乏しく、研究スタッフは私も含めて2人でありますが、研究上の幸運と偶然は私の研究室にも巡ってくるかもしれません。私にも待ち構える気持ちはありますが、待ち受ける心構えがあるかどうかわかりません」

馬渡はこの会報誌の中で、「自分が現在行っている生化学の実験は、あくまでも趣味の範疇で専門家としての研究ではない」といっている。しかしこの間に10編の英語の研究論文を海外の医療ジャーナルに投稿し掲載されている。そこいらの並みの大学教授ではとても真似のできないことである。50代半ばから10年間こんな若者のような研究生活をつづけていたことが、藤野に誘われてレオロジー機能食品研究所に移ってからのプラズマローゲンの抽出・精製につながったといってもいいだろう。また馬渡は同じ会報誌で次のようにも書いている。「振り返ってみると大学卒業以来、私はこの趣味(生化学の実験)を続けるために、多くの知人、友人にお世話をかけ迷惑をかけてきました。とくに、藤野武彦君には学生時代から現在まで人生の節目では必ず助力を受けてきました」

馬渡がこの手記を会報誌に投稿してから5年後、レオロジー機能食品研究所でプラズマローゲンが「生まれ」、馬渡と同じく少し歳をとりすぎた仲間とともに世界へ向け歩き出しているのである。