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「いのちの放浪記抄」<恋愛編>青春の煌めき

2022.11.20ブックスサイエンス

本ブログは、BOOCSサイエンス理事の川端國文氏が、2015年1月から2021年3月に福岡の詩誌「⽆」(ん)へ投稿した小品を「いのちの放浪記」と題して小説風に纏めたものの中から幾つかをトピック的に選び出して掲載したものです。
「いのちの放浪記抄 連載開始・目次」

<恋愛編>青春の煌めき

(1) いのちの旅へ

わたしは松井甚一。大学院で実験生物学の研究をしており、近所に住む年下のゆみこという娘に心を寄せていた。兄弟同士の繋がりで彼女の名前と顔は知っていたが、朝の通学時に見かけることがよくあるくらいで、それまで特に話したことはなかった。彼女には、いにしえの懐かしさを感じさせるものがあり、わたしにとって単に可愛らしい女の子である以上に何かしら不思議な存在である。

 

ある日の夕方、たまたま通学路で八つに折りたたまれた数学テストの答案用紙を拾ったことがある。開いてみると、ゆみこの名前が書いてあった。点数を見ると数学は得意ではないようだった。点数の良くない答案用紙をわざわざ届けるのは、嫌がられるかもしれないなとも思い、どうしようか、やめようかと何度も思ったが、翌日、思い切って朝の通学時に時間を合わせて何気なく直接手渡すことにした。路の先を歩く彼女を見つけて、わたしは少し急ぎ足で追いついた。

「おはよう。あのー、昨日、道でたまたまこれ拾ったんやけど」

「あー、どこに行ったのかと探してたんです。どうも、すみません」

仄かに頬を紅く染める感じで恥ずかしそうにゆみこは、テスト用紙を急いで受け取ってカバンにしまった。その時の仕草と可憐な表情が心深く反復する。

 

その後も偶然、学校の行き帰りに出会うこともあり、歩きながら他愛もない話をするようになって行った。そのことがむしょうに楽しい。夕方のかなり混んでいる帰りの電車でのことだ。中ほどに押しやられて吊革に手をかけて、ふと座っている前の人を見るとゆみこではないか。びっくりしたわたしに微笑みながら手に持っていた重いカバンを膝の上においてくれたのだ。混雑した車内では言葉を交わすことも出来ず、目で気持ちを伝えあうくらいである。

 

電車を降りて、夕陽を背に受けゆっくりと歩きながら、最近読んだ青春時代の友情やほろ苦い恋愛などを書いたヘルマン・ヘッセの「青春はうるわし」(高橋健二訳)の巻末の一節のことを話してみた。

「僕は理系で来たもんだから詩心というか詩人の気持ちの深い所まではよく理解できないけど、この詩は何か妙に心に響くんだよね」

「そうね、わたしは甚一さんみたいに理系のことはよくわかんないけど、ヘッセの詩は、青春のときめきとか淡い夢とかが美しい言葉で表現されていて素敵だと思う」

 

青春はうるわし

そはもはや来らず

楽しき時の命はうるわし

青春はうるわし

そはもはや来らず

 

「うん、確かに『青春はうるわし そはもはや来らず』というように人は青春時代の煌めく時を生き、そしてやがて年老いて死んでいくんだよね。美しい人も、いや、人だけやなく美しい花や景色や素晴らしい時も過ぎ去っていくしね。それだからこそ、優れた芸術家たちが、このあっという間に消え去っていく美や崇高な感動を、詩や絵画や彫刻とか音楽などを通じて、この有限の世界に形として表現して後世に伝えて行こうとしているんやろうか」

「そうかもね。だけど私にはそんな才能はないもん。この頃思うのは、幸せな人生っていうのは、健康に長生きしたとか、何かすごいことを成し遂げたとか、それはそれで大きな価値あることでしょうけど、そうでなくてもこの世界に生まれてきていることそのものが一番素晴らしいプレゼントのように思うの。生きている長さとか成し遂げたことの大きさとかは、それからすればおまけみたいなものかなって」

「そうか。ぼくが、生き物の研究しようと思ったのは、『自分も含めて生き物たちは何のために生まれてきたんやろうとか、いったい生命とは何だろう?』というようなことなんだよね。もちろん、まだまだ理解は浅いんやけど、今は自分のいのちも、全ての人や生き物のいのちも全部透明な一つの環に繋がっていて、その永遠の生命エネルギーのような異次元の『いのちの環』からこの地球上に一時生み出されて、また何れ皆そこに還っていくんやないのかなという気がしてる」

 

この楽しく心ときめく時が、いつまでもいつまでも続いてほしいと思った。しかし、次の小さな十字路で別れて、それぞれ家路へと向かわなければならなかった。

わたしにとってゆみことの出会いは、果てしない環をなす生命への旅を方向づけ、絶えず深めてくれるものがある。まさに彼女は、異次元の『いのちの環』の世界からやってきた不思議な存在なのである。