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「いのちの放浪記抄」 青春の煌めき(2)
2022.11.27ブックスサイエンス
「いのちの放浪記抄 連載開始・目次」
青春の煌めき(2)
いのちの旅へ(つづき)
夏の暑さがまだ残る、水色の朝顔の花の色が涼しげな日の夕方、彼女は突然、父親の仕事の関係で家族と一緒に博多から東京に引越しをすることになったのだ。まさにかぐや姫が、月世界に帰って行くように。
急に引越すことを聞いたものだから、すぐには受け止められず、心が落ち着かず、何かに引っ張られるようだと言おうか憑かれたような気持ちで博多駅まで見送りに行った。いよいよ無情にも列車は、わたしの淡い想いを引き裂き動き出した。窓の内側で彼女とその弟妹たちが手を振っている。彼らの姿が窓ガラスの光の反射の合間、合間に見え隠れして通り過ぎて行った。
まもなくして彼女から、きれいな字で短い便りが届いた。
「最初は物珍しいだけの都会生活だったけど、少しずつ慣れてきて、みんな落ち着いて元気に暮らしています。・・・」と。
おそらく引っ越しの片づけや新しい環境に慣れるのに、この間は大変だったのだろう。
わたしは、ゆみこや弟妹たちなど家族が東京で元気に暮らしていると知って気持ちが少しは楽になってきた。だが、心の中の空虚感はどうしようもなかった。何とかその空白を埋めようとしたが、研究に打ち込むわけでもなく、昼間はことさらにテニスに汗を流し、夜はヘッセの作品などを深夜遅くまで読み耽っていた。たまに数人の仲間たちと連れ立って学生相手のスナック・シャングリラ(理想郷)で安い酒を飲みながら議論をしたりなどして、なんとか気持ちを紛らわせようとしていた。
まだ気持ちが落ち着いてはいない翌年の春四月、夕陽の美しい日、なんとゆみこが脚の悪性腫瘍の骨肉腫で急逝したと彼女の母親からの知らせを受けたのだ。あまりにも非情な突然の知らせである。明るく元気に博多を出発してから、僅か八ヶ月ほどではないか。わたしは、ずしんとこれまで受けたことのない強烈なショックを受けた。
骨肉腫とは、十代から二十代の若年者の膝の周囲などに発生することが多いとされ、人口十万人あたり六例ほどの非常にまれな骨の悪性腫瘍で、初期症状では発熱とか関節の痛みがあり、自分自身では分かりにくいものだという。それにしても発症からこんなにも早く死を迎えてしまうのか。とても信じられなかった。夕食も喉を通らなかった。何かの間違いにきまっていると自分に言い聞かせた。
しかしそれは彼女の母親からの確かな知らせだったのだ。今すぐに、東京に飛んで行って、本当かどうか事実を確かめたい衝動に駆られた。だがそれはすぐには叶わなかった。どうしようもなく落ち込んでいたわたしの心に、苦し紛れに読み漁っていた宮沢賢治の詩集「春と修羅」の中の「永訣の朝」の一節が深い慰めを与えてくれた。
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
(あめゆじゆとてちてけんじや)
今わの際の苦しさの中で「雨雪をとって来てください」と賢治に頼むのだ。この世を去って行く妹にどうすることも出来ず、二椀の雪を取ってきて妹とみんなの幸いを願い、「どうかきれいな頬をして、あたらしく天にうまれてくれ」(春と修羅「無声慟哭」)と慟哭するしかなかった賢治の言葉が、わたしの気持ちを言い当ててくれているように思えてならず、言葉の一つ一つがじんじんと心に響き涙が溢れてならなかった。
ゆみこが、突然家族と東京に旅立ち、その後八ヶ月で骨肉腫の苦しみと悲しみと絶望の中で、この世界からあっという間に旅立ってしまったのだ。次の世界に向かったゆみこから見て、遠くわたしを九州・箱崎の地に残し、「わたくしをいつしやうあかるくするために」、もし彼女が頼んだ「雪のひとわん」があるとすれば、それはゆみことみんなの幸いを願うことなのだろうか。賢治は「永訣の朝」の最後で次のように願う。
どうかこれが兜率の天の食に変わって
やがてはおまえとみんなとに
聖い資糧をもたらすことを
わたくしのすべてのさいはいをかけて
ねがふ
悲しみの底から少しずつ気持ちを取り直して来たころ、わたしは、まずは夏休みに東京へ行き、もしそれが事実なら霊前にお参りしたいと強く思った。旅費稼ぎのためにいろんなバイトに奔走した。空き家の解体作業、スナックのチラシ配り・家電製品購入未支払い者の引っ越し先調査等々。僅かな資金をため、東京へのさすらいの旅だ。リュックを担ぎ、登山の格好で安い鈍行列車に飛び乗った。
途中、何故だか無性に長野の美ヶ原高原に立ち寄りたくなり下車した。天に近い美しい「お花畑」に行けば彼女の優しい心が感じられ、また高山植物を手向けようと無意識のうちに思ったのかもしれない。だんだん日も暮れてきたので、麓のまだ青いりんご畑の片隅に小さなテントを張り、やぶ蚊に刺されながら野宿した。疲れていたためかぐっすりと眠りについた。
翌朝は気持ちよく晴れ渡っていた。一歩一歩標高二〇三四メートルの美ヶ原に登り始めた。まるで彼女に会いに行くような心踊るものがあった。夏とはいえさすがに空気は冷たかったが、黄色や薄紫、白の小さな高山植物の「お花畑」は美しく、傷ついたわたしの心を癒し励ますに十分であった。見晴らしの良い場所の岩に腰掛け、眼下にたなびく白い雲の上に浮かび上がる美しい光景を暫らく眺めていた。
すると斜面の左下側向こうの空から見る見る黒雲が湧き上がって来るではないか。なんと下から雷鳴が稲光と共に、まさに這い上がってくるのだ。身の危険を感じ、時計やリュックの中の金属類をとっさに放り出し、ポンチョをかぶって近くの大きな岩陰に隠れた。周りはたちまち暗くなり、突然のせめ上がる激しい雷鳴と稲妻に打たれ、わたしはこのまま死ぬかと思った。しかし手は動く、足も動く。確かに生きている。こうして偶然にも生きている。雷雲と激しい雨が通り過ぎるのをじっと待った。山の天気は変化が激しく、黒雲が通り過ぎると、みるみる青空が広がって来た。今、この美ケ原で、いきなりの晴天の下、天によって生かされたいのちをどう受け止めたらよいのか。
賢治の「永訣の朝」の最後の一節が、何度も何度も反復される。
聖い資糧をもたらすことを
わたくしのすべてのさいはいをかけて
ねがふ