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「いのちの放浪記抄」 いのちの原点から(2)

2022.12.12ブックスサイエンス

本ブログは、BOOCSサイエンス理事の川端國文氏が、2015年1月から2021年3月に福岡の詩誌「⽆」(ん)へ投稿した小品を「いのちの放浪記」と題して小説風に纏めたものの中から幾つかをトピック的に選び出して掲載したものです。
「いのちの放浪記抄 連載開始・目次」

追憶の恋と反復の恋

半月ほどたって夜霧のうっすらと立ち込める日、わたしは生命探究詩人の宮崎を誘って、ひとみにも久しぶり会えるのを楽しみにスナック・シャングリラに飲みに行った。中に入るとママが明るく迎えてくれた。

「いらっしゃい。今夜は、いつもより早いのね。お酒は何にしますか。肴は今日もいろいろ用意してますよ」

「最初はビール、お願いします。今日はひとみちゃんお休み?」と尋ねると、何と思いもかけない言葉がママから語られた。

「ひとみちゃんはね、半月ほど前、知り合いの紹介で大阪方面の電気関係の会社に就職して行ったんよ。このお店ではほんとによくやってくれてたんで助かってたんだけどねえ。あの子のように気の利く女の子がなかなか見つからず、ずっと大変なの」

 

そうか、一緒にテニスをしたあの日からしばらくして、ひとみはシャングリラをやめたのか。わたしはショックで喉がカラカラになった。昔、ゆみことの別れの時は、博多駅までやるせない気持ちを抑え抑え見送りに行き、列車の窓越しに手を振って別れたが、その後、帰らぬ人となったと知らせを受けて深く悲しんだ。しかしひとみの場合は別れの言葉を交わすこともなく、まさに「夜霧に消えた」のだ。私の切ない思いをよそに大阪のどこかに住み、この空のもとで元気に暮らしていると思えば少しは慰めにもなろうというものか。

 

 落ち込んでいるわたしを見て、ママはまず慰めの言葉をかけ、そして諭すように言ってくれた。

「ひとみちゃんは、甚君のことを好きやったみたいよ。だけど女の直感で甚君が別の女の人のことを思っていると感じたみたいね」

わたしはすぐに、あの時「手相とか観れん」とか言って無下に突き放したことが、ひとみを寂しく悲しい気持ちにさせてしまったのかと思い至った。ママにそのことを話すと、

「手相観れんでも、『綺麗な手やね』とか言って、手ぐらい触ってあげてたら、あの子の気持ちはまた変わってたかもね」

恐らくひとみは、ママが言うように、その時のわたしの心の中にゆみこという別の女性への気配を鋭く感じ取ったのだろう。そうであったのなら、わたしはひとみに対して意識的ではなかったにせよ残酷な仕打ちをしてしまったことになる。わたしは苦いビールを一気に飲んで、安いウイスキーの白の水割りを頼んだ。

 

宮崎は、わたしがひとみに魅かれていることはうすうす気づいていたので、わたしの落ち込み様を察知してか、静かに彼も白の水割りを飲みながら、おもむろに話し始めた。

「最近、キェルケゴールの作品を読んでるんだけど、その中に『反復』というのがあってね、これがなかなか面白いんだ。というのはね、恋愛には『追憶の恋』と『反復の恋』があるらしいんだよ」

 

わたしは、いつもより濃いめの水割りを飲みながら宮崎の話に耳を傾けた。宮崎が淡々と話し続ける。

「哲学では、時間にはクロノス的時間とカイロス的時間があるというんだ。クロノスとは時計が刻む過去から未来への流れの時間のことだけど、カイロスは時計では測れない質的なタイミングのことをいうらしいんだね。分かりやすい例だと、花が開く時とか、命が誕生する時、死ぬ時、結婚の時など物事が成就する適期のことをいうようだね。さらに面白いことにカイロスの時間は、速度が変わったり繰り返したりする内的な時間であったり、また永遠が時間の中に突入してくる瞬間でもあるらしいんだよ。

だからね、僕なりの理解で言うと、『追憶の恋』というのは失った恋への未練というか、過去の美しい思い出に浸る恋だろうから、あくまでもクロノスの中の恋なんだよね。ところが、『反復の恋』の方は、過ぎ去った恋への想いを断ち切り、まったく違った形のものとして受け止め直す、『永遠が今の瞬間に突入してくる恋』とでもいったらよいのか、何か哲学的というより人間の常識観念を超えたスピリチュアルなもののような気がするんだよな。つまり、『反復の恋』はカイロスの時の中の恋じゃないのかな」

 

宮崎の語るキェルケゴールの「反復の恋」の話の真意はよく分からないのだが、何故かしら冷たくなっていたわたしの心をじわじわと温めて行った。しかしママは、わたしの心の動きを見てか、「これだけは言っておかないと」という感じで、ややキッとした口調で言葉をはさんだ。

「難しい話は、よくは分からないけど、ひとみちゃんは多分もう福岡には戻ってこないと思いますよ。あの子は大阪で、知り合いから紹介してもらった新しい仕事をしっかり覚えて頑張ると言ってましたからね」

 

わたしはママの一言で、自分がまだひとみへの思いに執着していることを痛感し「反復の恋」とは「よりを戻す」ことでは全くないんだと思い知った。そしてまた、夭折したゆみこへの「追憶の恋」にもまだ強く縛られていることに気づかされたのだ。こんな程度の自分は、前向きにというか「永遠の今」を生きようなんてこととは全く関係なく、まだ後ろ向きの過去に向かってイジイジと自慰的に無意味な時間を過ごしているに過ぎないのだ。

確かに、ゆみこの夭折の悲しみの真っただ中にある時は、宮沢賢治の「永訣の朝」の詩にどれほど慰められたことだろうか。そのような慰めの時も、わたしには確かに必要だったのかもしれない。そして今、宮崎とママの話を聞いて、荒平太和(福岡在住の詩人)の詩集「歩く魂」の中の「恋」の一節が鮮明に浮かんできた。

 

むかし 恋をした ことがあった

下校時の道辺の姿を遠くから見ていた

その女性は卒業前に転校して行った

 

古里を離れるときにも思いを続けていた

あの女性が 住む 九州の北の土地

そこに行けば 再び会うことができる

 

四月は桜散り 五月は学園祭だった

陽に輝く 楠の若葉の したみちを

あの女性がわたしに向かって歩いて来た

 

薄汚い学生寮で 手紙を書いては破り

呼び出し電話で デートにも誘った

膝にそろえた手首がふっくらとしていた

 

この女性の姿はみ空の霞となったが

想いは叶い願えば再会した恋だった

傷心が癒えてむかしの恋を思い出す

 

いや待て 今でも 恋をしている

失恋し 嘆き悲しむ そのたびに

むかしの恋が 恋を呼び寄せる

       

「み空の霞」となった女性の姿への詩人の「追憶の恋」が「いや待て 今でも 恋をしている」と呼び覚ましている。「失恋し 嘆き悲しむ そのたびに むかしの恋が 恋を呼び寄せる」のだが、この呼び寄せられる恋こそ、「追憶の恋」を超えた「新しい恋」のようでもあるけれども、それとはまた次元を異にした、絶えず新たに生み出され希望を与え続け、形を変えて受け止め直すことを促す「反復の恋」ではないだろうかと思った。