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「いのちの放浪記抄」 生命探究 いのちに問う(1)

2023.01.09ブックスサイエンス

本ブログは、BOOCSサイエンス理事の川端國文氏が、2015年1月から2021年3月に福岡の詩誌「⽆」(ん)へ投稿した小品を「いのちの放浪記」と題して小説風に纏めたものの中から幾つかをトピック的に選び出して掲載したものです。
「いのちの放浪記抄 連載開始・目次」
上京した甚一は、大学の学生寮に泊めてもらい、そこで数学専攻の亀山亮三と出逢い意気投合する。それぞれの学問上の悩みなど深く語り合う。亀山は、「魂の詩人でなければ数学者になることは不可能だ」という越えがたいテーマにぶち当たっていることを話し、甚一は「生命とは何か」といった直接的なこれまでの問い方ではなく、もっと多様な柔軟な問い方を模索していることなどを語りあう。
 

いのちにうまく質問せよ

甚一は、亀山の悩みに感応して語る。
「実は僕も生物学の研究をやり始めて同じような問題を抱えてるんだよなあ。有名な数学者の岡潔と評論家の小林秀雄との対談集『人間の建設』というのがあるよね。その本の中で、今、僕らがぶち当たってることに少し繋がりそうなことを言ってる箇所があったと思う。僕の場合でいえば『生命とは何か』とずっと答えを求めて来て、求めれば求めるほど求めているものからだんだん遠ざかって行くような気がしてならなかったんだ」
 
亀山は、自分の気持ちと重なるものがあると感じたのか真剣に聞いていた。わたしは、彼の反応を見ながら、むしろ一緒に事の本質を探ってみようと思って話を続けた。
「ところがね、小林秀雄は、『命という大問題を上手に解こうとしてはならない。命のほうから答えてくれるように、命にうまく質問せよ』というようなことを言ってて、そうか自分はうまく質問もせず、ただ、がむしゃらにこちらからぶち当たり、答えを得ることばかりに汲々としてたんだと気づかされたんだ。それで、『生命とは何か』という問い方をやめて、『自分が求めている生命とはどんなものなのか』と自分の内面に問い返してみたり、『自分は一体この世界で何をしたいのだろう、自分にとって心を躍動させるものって何だろう』とか『生命への囚われを放すにはどうしたらいいんだろう』といったふうに違った角度からいろいろ問うてみようと思ってる」
 
亀山も、自分が数学をやること自体にもっと光を当ててみたいと思ったのか、ひとり自問するように語った。
「そうだなあ、高校時代に数学が得意だったから数学者を目指していますというのも薄っぺらすぎるからなあ。自分が数学を専門としてやることが、自分の心の歓びとなっているのかとか、それが社会とどんなふうに繋がるのかとかも、もっと考えてみる必要があるかもな」
 
わたしは、彼の呟きを聞きながら、自分の疑問点も出してみた。
「生命の本質的なものの探究の手掛かりの一つとして、確かに現代生物学の本流は、デカルト以来の生き物を自動機械とみなして、その体の構造や構成成分や機能はどうなっているのかと問い続けてるよね。そして、多様な生命現象を一つ一つ素過程に分けて、そのメカニズムを徹底的に究明し統合して行こうとして生命科学は飛躍的に発展してるわけだよね。そんなメカニズム論は、生物学の分野に限らず医学や農学の分野でも大きな花を咲かせている。だけどね、デカルトは動物を神が創った自動機械と見なし人間の肉体も他の動物と同じように自動機械だとするけど、人間には特別に魂が存在しているという魂と肉体の二元論を唱えてるみたいだね。僕は研究室では、生物をこの自動機械とみなすメカニズム論の激流の中で何かしら違和感を覚え、押し流されまいと無駄な抵抗しているって感じなんだ。だからこそ、自分が本当は何を求めているのかをはっきりさせて、それにどう問いかけるかなんだろうね」
 
私たちは初対面のお互いだったが、今抱えている問題を率直に出し合って考え合い、えらく意気投合し夜遅くまで語り合った。この楽しい出逢いのひと時も、ひょっとしたら、ゆみこからの「聖い資糧をもたらす『雪のひとわん』の一口だったのかもしれないなと思えて来た。
 
翌朝、亀山亮三に上野公園から江戸川方面への行き方を丁寧に伝えてもらい、固い握手を交わして別れを告げた。わたしは、リュックを担いで上野公園をしばらく散策することにした。国立科学博物館で恐竜展をやっていたので、ここでしばらく予定時間まで、40億年に渡る気の遠くなるような長い生物進化の歴史の証拠とされる化石をじっくり観て回った。
 
全長12メートルの巨大なティラノサウルスやこれも9メートル程のトリケラトプスの化石を見ていると、1億年ほど前の中生代の白亜紀にこれらの巨大な恐竜が、この地球上を闊歩していたとは改めて驚きである。それが6600万年前に、突然の巨大隕石衝突により一気に絶滅してしまったのだ。これらの多くの恐竜たちは、いったい何を感じながら、また何を求めてこの地球上で生きていたのだろう。そして恐竜が現代の鳥たちに進化したと言われているのだが、果たして鳥たちは恐竜の夢を覚えているのだろうか。
 
さらにわたし達人類の祖先とされるアフリカで発見された初期の化石人類たちのことを歩きながら考えていた。彼らは450万―700万年前に現れ、大いなる「生命の環」に連なり今日のわたし達に繋がっている。
しかし、わたし達もやはり化石人類たちの見ていた夢を覚えてはいない。恐らく彼らも厳しい環境の中で、必死に食べ物を求め、安らぎの場を探し、愛するものと出会い、幸せを求め続けていたのではないだろうか。そのような最初の化石人類の胎児が母親に宿った時のことに思いを馳せてみた。
 
19世紀後半にヘッケルという発生学者が「発生反復説」を提唱している。これは「個体発生は系統発生を繰り返す」とする学説で現代生物学でも広く受け入れられている。つまりわれわれ人間も母親の胎内での約10カ月の間に、魚や亀やニワトリの胚や、豚や犬や猿たちの胎児と良く似た形をたどり、共通した40億年の生物進化の過程を経て誕生しているとするのである。であれば、わたし達がこの地上に生み出されるにあたって、あの最初の化石人類の胎児と同じ形も辿って来たのではないか。
 
もちろん生命の起源説によれば、煮えたぎる原始海洋中に化学進化の過程で無機物質から生じた有機物質の液滴であるコアセルベートが最初の原始生命体と考えられている。そして単細胞となり、やがて核酸RNAを経て遺伝子DNAが偶然生じ、このDNAこそ多細胞生物に至る生物進化の中心的役割を果たしていると思われる。しかし、このDNAの働きそれ自体は、善や悪とは無関係の極めて機械的で中立的な現象だとされている。ところが、わたし達人間も含めたすべての生き物が、この「利己的遺伝子」ともいわれる自らの生存と繁栄を高めようとする物質DNAの操り人形であるかのような誤解を招きやすい。それほどまでに人間が根底から拘束されている不自由な存在だとしたら生きていること自体が面白くもおかしくもなく無意味なものとなってしまうではないか。
 
だが、そんなことは決してなく、身体の構造や機能は確かにⅮNAの遺伝情報の産物ではあるが、そこから創り出された脳の高次機能である精神活動としての意識そのものは、多様な選択肢の「荒野」の中に放り出されているという意味から、生物学的拘束からも自由で崇高な存在であり得るといってよいのではないか。だからこそわたし達は、もういい加減に正義の観念を振りかざし、力づくで争うつまらないことはやめて、目の前のすぐ隣にいるお互いを大切にしあい、何も持たずともこの世界で喜びや悲しみも共にし、楽しく仲良く生きて行けるはずだ。その一瞬一瞬のかけがえのない人生を今、わたし達は生きているのだから。