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「いのちの放浪記抄」 生命探究 いのちに問う(3)
2023.01.22ブックスサイエンス
「いのちの放浪記抄 連載開始・目次」
たこつぼ談義
わたしは安い酒場で宮崎と酌み交わしながら日頃から感じている研究室の講座制『蛸壷』論の件を切り出した。
「先日、古市教授と話したんだけどね、完全に論破されてしまったよ。確か、マックス・ウェーバーが、『職業としての学問』の中で『学問に生きるものは,自己の専門に閉じこもらなければ、のちのちまで残るような仕事を達成できない。だから自分から目隠しをつけることのできない人や、自己の全身を打ち込んで、たとえばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になれない人は、まず学問には縁遠い人だ』と言っていたよね」
宮崎は、ビールでのどを潤しながら相変わらずのんびりとした口調で応えた。
「『自己の専門に閉じこもる』といっても、本当はそんな『蛸壷』に誰かから言われて入ったりするもんやないと思うよ。自分からワクワク面白そうやなと思って始めてみたら、いつの間にかそうなっていたということやないのかな。だけど、外からは同じように『蛸壷』に入っているように見えてても、一人は教授とかの権威や薄っぺらな業績主義なんかに縛られて出られなくなって苦しんでる奴。もう一人は遊びの延長みたいなもので子どものように夢中になってやっているわけや。だからウェーバーにはむしろ『たとえ周りの反対があっても、自分がやりたい学問なら何でもやってみろ。少々失敗してもいいやないか』と言ってほしかったな。結局はやりたいことをやり続けた奴が、生活面では苦労しながらも、ちゃんと蛸壷に入ってなにがしかのことを成し遂げているんだけどね」とにやりと笑った。
わたしもつられて苦笑いしながら応えた。
「なるほどね。生物学者ではないけど、生命派放浪詩人の葦野仲作さんと話していても、もうこれしか自分のやりたいことはないといった感じだよね。赤貧洗うが如き生活でも、子どものように夢中になって純粋に生命を言葉化することにかけているからねえ」
深く息を吸って、宮崎が自らへのぼやきとも葦野仲作への賞賛ともとつかない感じで語った。
「うーん、そうなんだよなあ。定職に就かないで、飯を食う手立ても講じずに、詩を書くことだけを天職としていて、そこにかける凄まじい意欲というものは、それはもう桁外れだぜ。趣味的に詩を書く人はたくさんいるし、それはそれぞれでいいんだけど、いやぁ、仲作さんは、あそこまで行くんかと頭が下がるよ。だから、そんな彼の生きざまが周りの者にどれほど生きる勇気を与えてくれてることか」
わたしも、それでは自分のいのちを探究する姿勢は、一体どれ程のものか吟味しようとして言った。
「僕らは、『生命とは何かを』知りたくて生物学の分野に来たんだけど、この学問は自分たちが求めている問いには一向に答えてはくれん。『生き物の体や細胞の仕組みとか働きはこうなっとるんや。心の問題も脳の神経細胞の発するインパルスや様々な神経伝達物質の放出のされ方でいずれ解明されるに決まってるではないか』といったメカニズム論ばかり。自分には満たされるものが何にもない。確かに新たな物理法則としての不思議な生命の原理を解明するのは魅力的かもしれん。しかし、自分にとってはねえ。内から突き上げてくる『いのちへの渇き』とか『いのちに触れたい』欲求は、生命現象のメカニズム解明ではとても充たされるわけないよな。ということは、少なくとも僕は実験生物学に無いものねだりをしていたわけで、来るとこ間違ったのかもしれんな」
生命探究詩人の宮崎は、水割りをごくりと飲んでおもむろに応えた。
「全く同感だよ。自分の場合は、機械論的生命観を超えて純粋に感じ取れる『物質といのちの不思議』をどこまで言葉化できるか詩作に没頭したいんや。ところが現実は、ファージ遺伝子DNAの苦しい研究の合間に、自分の心中のデキ物を掻きむしるように詩を書いてるだけやろ。僕が文学の師と仰いでいる生命派放浪詩人の葦野仲作さんのように一途に詩作に専念できればいいんやけど、飯代にも事欠く貧しい彼をそば近くで見ていると、やはり詩人で飯を食うことは至難の技なんやなとブレーキかかってしまうよなあ。たぶん僕が知る限りでは、詩を書くだけで飯食えてる人って殆どいないんじゃないのかな」
「そうなんだろうなあ。この前の夕方なんかねえ、突然、仲作さんが家に来て『いやあ、ちょっと通りがかったものですからね。これは今度出した詩集です』と、十数頁の冊子を持ってこられたのでカンパの気持ちもこめて千円で買ったよ」
それを聞いて宮崎は、自分と仲作さんの場合はそんなもんではないよと言わんばかりに、彼にしては珍しくちょっと困り顔で言う。
「大体、仲作さんから誘われて食事に行っても、食事代など全てこっち持ちに流れが決まって来るんやからなあ。彼が言うには、『乞食とはコツジキ道のことであって、衆生に慈悲心を起こさせる尊い行為であり、喜捨の精神を培うものだ。そして詩人の食事とは言葉を食べること』らしいぜ」
わたしはできるだけ言葉を選びながら応えた。
「そういえば『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』(マタイによる福音書4・4、申命記8・3)という有名な一節があるよね。普通この個所は『人はあくせく働いて生活の糧を得るためだけではなく、精神的な心の満足が大切だ』みたいな意味で言うようだけど、僕にはどうしてもそうは思えないんだよなあ。実際、人が自力で真面目に頑張っていても、行き詰まったり挫折したり、どん底まで落ちこんで死の谷を歩むようなこともあるもんな。そんな時こそ『荒れ野の長旅で飢え苦しんでいたイスラエルの民に、味わったことのない食物のマナが降り注ぎ皆が空腹を満たすことができた』ように、どうしようもないどん底に投げ込まれているからこそ、必死に心から素直に天を仰げば思いもよらない『新たな道標=神の口から出る一つ一つの言葉』が示されると言っているんじゃないかな。だから生命派放浪詩人の葦野仲作さんの言う詩人の食事の『言葉』というのは、『いのちの言葉』=『天からの生きる道標』というような意味かもしれないね」
宮崎は、「言葉を食べて生きていく」ということの厳しさを噛みしめながら言った。
「うーん、仲作さんは僕にも話してくれてたんやけど『詩人は本来乞食と同じ世界の住人に違いないのだから、自分の力で働いて生活の糧を得るという常識的考え方を捨て、天から与えられるもののみを待ち望み、与えられれば有難く頂戴し、無ければ無いで清貧の中を生きる托鉢僧のごとくあれ』ということを自らに課したんやろうね。とはいっても、実際ほとんどの詩人に、マナが降り注ぐことはないようだし、マナが降り注ぐことを狙って詩人になるなんてのも変な話だしなあ・・・。いやいや、これは『托鉢僧のごとくあれ』という話の本筋を違えてしまったようでごめんごめん」
酒もかなり進み、感覚も緩み始め脱線よろしく議論もかなり面白くなってきたようだ。わたしは目を閉じ水割りを飲む手を休めて、生命探究詩人の宮崎善治の「マナが降り注ぐことを狙って詩人になるなんて変な話だしなあ」という呟きを面白いなと感じて、しばらく考えていた。
そうか、自分が生物学に求めていた「いのちへの渇き」というか「いのちに触れたい」といったような欲求の出どころは、言い換えれば本来自力で人間が直接つかむことなど出来ようはずのないマナに相当する「いのちの本質」を直接つかもうとする思い上がりだったわけだ。「変な話」どころか自分は人間として身の程知らずの大バカ者だったのだ。生物学研究者を目指したい者は、素直に生命現象のメカニズム解明でも何でも、仕事としてバリバリ割り切って大いに論文を書いて学問の世界に貢献すればよいのだ。「いのちへの渇き」といった欲求は、知的明晰性を本分とする学問の精神とは次元を異にした、むしろ生き方に関わる別次元からの崇高本能の顕れではないだろうか。